開界録2019

The time I retired from jobs is the period reviewing and comprehending my past life.

イメージとしての反体制

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サラリーマンとして過ごす38年間を除き、高校生から大学生の間ずっと学生運動や反体制、反戦の活動に心惹かれるものがあった。1年間だけは当時自分の身近にいたマルクス主義の党派の人たちの集会やデモに参加していた。しかしいわゆるゼネストバリケードを築いたりという高揚した時期を経験していないので、闘争を担う活動家ではなかった。だから法律に触れる破壊活動やテロには一切関わっていない。いってみればサークル活動や研究会を少し拡張したものにすぎない。かといっていわゆる内ゲバにも巻き込まれる身の危険はあった(実際1年先輩のSさんは下宿で襲撃に遭った)ので、恐怖は感じなくはない環境にはいた。

これまでなぜ自分がそうした時期のことをきっぱりと捨てきれずにいるのかがわからずにいた。最近「全共闘白書」という本があることを知って、その当時の元活動家の人の生の文章を読むことができた。(73のアンケート項目に526人が回答するという形ではあるが)その中でぼくと同じ年齢の人が一人しかいなかった。少し読み始めて感じたのは、ぼくはその人たちとは全然違う経験をいていたということだった。

ぼくはあのエネルギーが解放感に溢れて好きだった。ひと時だったがとびっきりの自由を実感できていた。必ずしもあの人たちのように正義に基づいて行動したわけではなかった。そこがその当時唯一の居場所だった。生きた思想(生死を賭けた思想とも言える)にも触れ得たことがその後のぼくを作ったと思う。その思想にはイメージも含まれる。その感じを感じ続け、それが何かを明らかにしたい。

定年後のオタク

現在の心の状態を表現していつでも思い返すことができるようにしたいと思うが、特段変わったところがあるわけでなく、平静であるものをどうやったら書き留められるか途方に暮れる。本を読み終わった時の頭の中がいっぱいに満たされた時のような、充実感に近い気がするが、それ程高揚感があるわけでもない。

確かに読書と関係があり、芸術家の工房の中にいるような、自由な空気と決して明るすぎない間接光で照らされた落ち着いた部屋にいるような感覚だ。それは想像力によって描かれた空間で、幾分肌に感じることもできる心地よいものだ。雰囲気だけが残像のように、じっとしている自分の周りに漂っている。それを幸福と呼んでもいいかもしれない。

本の種類がこれまでの小説だけから、英語の参考書が加わったことで高校生の時のような学習熱も湧いてくるようになった。ただ楽しみのためだけの英語学習は、取り立てて目的があるわけではなく、英語に関することを知ること自体が楽しい。この感覚は大切にしたいと思う。ほんの少しづつの蓄積されていく知識に対する純粋な愛着がその感覚だとしたら、素晴らしいことに違いない。趣味こそ無為な日常から救い出してくれる知恵だからだ。あるいは英語オタク(English nerd)と言った方が当たっているかもしれない。しかしまだその域にはいっていないだろう。オタクほどの詳しさにはまだ程遠い。

「英語ネイティブ脳みそのつくりかた」の著者、白川寧々は独特のオタク的英語学習法の創始者だ。

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都会のスローライフ

よく定年後の生活のモデルとして、田舎でのスローライフが取り上げられるが、私は都会でのスローライフの方がいいと思っている。何より文化的なインフラ(コンサートホール・美術館・図書館・体育館・スィミングプール・テニスコート・ミニシアター・博物館・記念館・公園・トレッキングコース等)が年寄りには必要だし、交通の便がよくなくてはならない。若くして都会に住んでいるなら定年後であっても都会に住み続けたらいいと思う。時間だけを思いっきりスローにすれば、それだけで景色は違うはずである。また周りがみんな時間に追われてあくせくしている中で、自分の周りがゆったりしているのは気分がいいものです。幾分不謹慎かもしれませんが、黙って楽しんでいればいいだけです。

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ブログ開設3年目

はてなブログから、このブログが開設まる2年経ったとメールが来た。今日から3年目に入る。自分の書いたものがブログとして2年分の塊になった。具体的に目に見えるストックができたわけだ。フローを続けるのはどこかしんどい所がある。自分に飽きないようにするには、どこか新しい要素を書き加えなければならない。絶えず新しいことを書くにはその都度の自分の状態を否定する必要がある。

この2年分のストックをアドバンテージとする生き方があってもいいと思う。絶えず進むばっかりだと疲れるので、いつでも戻ればいいし少なくとも書くことについては2年分のストックがあることは強みだと思う。ある文芸評論家が村上春樹を自己模倣に入ったと批判していたのを思い出した(そもそも村上春樹を持ち出すのをおこがましいとは自覚している)が、自己模倣も深く進化していけばいいのだ。

今日本棚からカミユの「反抗的人間」を取り出して、適当に開いたページを読んでみた。やはりかなりサルトルを意識しているように感じた。哲学書からかなり引用がされていた。カミユはサルトルほど裕福な家庭で生まれたのではなかった。かなり乱暴な解釈をアンチ・アカデミックに展開していた。昔読んだ時にはチンプンカンプンだったが今では少し理解できそうな気がした。マルクス主義ポストモダンも思潮を失った今、ゼロから自分のために実存主義を捉え直しても悪くない。実存主義とは、個人が社会や歴史に立ち向かう自立的立場を作り出すものだと思う。勝手な解釈だけれど、徹底的に個人に止まりこだわる村上春樹も、私には実存主義者に思える。要は、表面的な装いの新しさに追い立てられることなく、前進と後退を繰り返しながら生きるのが、息苦しくなく自分らしく生きることになると思う。

 

66歳の年の瀬に

65歳を過ぎてから年齢をあまり気にしなくなった。別に歳をとったという自覚はない。私と同年輩の中学からの友人は、早くも終活という言葉を口にしていた。私といえば終わりは全然見えなくて、これからどんどん自分が変わっていく予感がする。その変化の具合というか、度合いというかそれが前進している感じを与えてくれるので、余計に終わる方向には向かわないのである。

さて、もうすぐ年明けするが、今の心の状態を書いておきたい気持ちになった。私は世の中の流れから距離をおいて隠遁生活をしているようなものだが、生活から離れると自我が拡張して自分を盲信する危険性を自覚している。年が明けて今年はこれをやり遂げるぞと目標を立てたりしがちになる。そう、とんでもない目標を作ってしなう。例えば「ユリシーズ」を原書で読破しようとか、、、自分の能力を盲信してしまう。

それで、謙虚になることが大事で、基本を十分身につけようと思ったのである。例えば世界文学でいえば、中国の小説はまだ読んだことがない。井の中の蛙になるべからずだ。年が明けたらまず、莫言の「蛙鳴」を読んでみよう。

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3人の村上春樹論

平野芳信、市川真人黒古一夫という文芸評論家の村上春樹論を最近続けて読んだ。一番批判的なのが黒古一夫で、「1Q84」は壮大な失敗作としている。それぞれ小説に何を求めるかによって村上春樹に対する評価が違う。色々新しい発見があったが、これまで自分はネズミを「ノルウェイの森」のキズキのような「ぼく」が影響を受けた友人と捉えてきたが、黒古はネズミも村上の分身と捉えていた。そうするとグレートギャツビー はフィッツジェラルトの分身となり、私は語り手のニックがフィッツジェラルトだと思っていたことの読みの前提が狂って来ることになる。確かに作者は全ての登場人物を書き上げているわけだから、全てが作者の分身といっても差しつかえないわけだ。話が飛躍するが源氏物語紫式部は、一人の光源氏を巡って登場する全ての女性が自分の分身なのだと河合隼雄は言っていた。しかしその場合、光源氏その人は紫式部の分身ではないわけだ。自分の解釈とプロの評論家の解釈でどちらが納得性があるのか大方の人の判断は後者だと思うが、自分としてはネズミは光源氏のような作者に最大の影響を与えた他者と捉える方が合っているように思える。

市川真人は他のどのような小説家にもないユニークさを村上春樹に与えていた。いわばこれまでの日本の文壇にはない決定的な違いを与えていた。村上春樹とその他の作家という分類ができる、ということだ。それは村上春樹だけがアメリカを内在的に掴んで日本的意識構造を脱構築できているということだ。それはもちろんアメリカ人作家が日本を書くのとは違うし、日本人作家(三島由紀夫石原慎太郎田中康夫村上龍など)が日本を書くのとも違う。

平野芳信の本は丹念に村上春樹を時系列に追って書かれた評伝で、勉強になった。

レンタル何もしない人VS相席ラウンジ

昨日の午後は2時半ぐらいからずっとNHKドキュメント72hoursを見ていた。偶然見出したら面白くてやめられなくなった。視聴者が選ぶ今年のベストテンの2位と3位が特に今の世相を浮かび上がらせる断面になっていた。東京の「レンタル何もしない人」と仙台「相席ラウンジ」は寂しい人の困りごとに対応するビジネスコンセプトを持っているように思えた。それは東京と仙台という都会でしかなり立たない危うい「ビジネス」のようにも思えた。(「レンタル何もしない人」には東京の交通インフラが条件だろうし、「相席ラウンジ」は全国にあるらしいが、仙台の若者の真面目さと土地柄が他所にはない「相席」を生むようだ。)この番組は見るノンフィクションといったところか、他のケースにも人生の哀愁や温かさを感じさせるものがあった。元刑事の定年過ぎた人がホームセンターで買い物しているところにインタビューして、「これから妻と一緒に旅行に行けると思ったら、死んじまって。仕事なんてどうでもよかったんだよ。」と呟いたシーンは胸を突いた。刑事の時は奥さんをほおっておいて仕事一筋だったのだろう、、、

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年賀状を出した

今日25日までに投函すれば元旦に着くということなので、年賀状を出した。いつも妻と共用なのでどうしても無難なデザインになる。今年は妻も一発OKを出してくれた。ハガキの下の方にいつもコメントを書くのだが、今年は一人一人相手に合わせて書いて、全部違うコメントになった。

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グローバル資本主義VSポランニー

カール・ポランニーの評伝を読み進めていて続かなくなった。資本主義に変わる体制を作ることができるかという壮大な問題に対して、答えの一つを提供してくれることを期待して読もうとしたのだった。現代世界の最大問題だと思っているグローバル資本主義を理論的に批判できる考えがポランニーにあるということだった。でもその問題は自分が取り組むには大きすぎるのではないかと思い始めると、読む熱が少し冷めてきて続かなくなってしまった。自分に切実であるか、自分の内部にあることとして感じられないものは所詮受け入れられないという経験則がある。

私がカール・ポランニーの理論を知ったところで何かが変わる訳ではないだろう。しかし私の世界を見る目は少し変わるかもしれない。視界が少し広がるかもしれない。私は変わることができて、他人が支配している世界は何も変わらないとしたら、それをやるべきなのだろうか?

問題は確実に自分が変われるのかという精度にある気がする。英語を学べば、確実に身に付く部分があってその分は自分が変われるという実感がある。でも思想とか理論はどこで確実性を測るかは分からない。明らかに有効である根拠がどこにあるのだろう?

それは哲学の問題になる。宗教の問題になってはいけない。しかし世界はつまるところ経済力で動いている。それは真実に思え、証明は私にはできないが私はそれを信じている、、、

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一人の人間ととことん付き合う

河合隼雄の肉声が聴ける。「私は河合隼雄という奴と、とことん付き合っている」という話のつかみからもう、これは身を乗り出して聴くしかないと思った。

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モンキーズを聴いて

思い出すという記憶の活性化を通して、自分の少年時代にタイムスリップする。何とも言われぬ夢の中のような異次元が現れる。そこではとても幸せでいられる。結局私の幸せは少年の頃にいた世界と同じものなのだろうという気がする。妻と今一緒に暮らしているこの環境も、少年の頃、母がいて父が仕事から帰ってきて弟とじゃれあっていた家の中のあの雰囲気と同じもののような気がする。この温もりが家庭というものを中心にあって作り上げている、という確信がする。ああ、何も変わらないのだ。きっとどんな時も私の無意識化にあって、私を私に引きつけ続けていたのだろう。結局のところ、私は自分を超えるような冒険に手を出さなかった。つまりは平凡な人生だった。

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菅官房長官を公然と非難するネットの声

いくらおとなしい国民も流石にこの人に声を上げるようになった、、、

 

〈みんな言ってる、ホテルなんかより被災地に支援をって。ブルーシートまだあるんだよ。誰を見て政治してるの?〉

 〈仮設で不便な生活続くのに…〉

〈ホテルは儲かるなら勝手に民間が建てる〉

 〈外国の富裕層向けのホテルが足りないだと? なんの義理があって富裕層の贅沢を国民の税金使って用意しなきゃいけないの??〉

増税しました→社会保障削ります→高級ホテル建てます、ときたわ。クソだな〉

〈高級ホテルのスイートルームから富裕外国人が仮設住宅に暮らす日本人を見下ろす植民地的未来図〉

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私淑する

私の私淑を、この二人の文学者とする。いずれも私の美大時代に出会って長い間関係が途絶えていた。今朝夢うつつの状態で、その名前が浮かんできた。栗田勇大岡信。この二人から絶対肯定の世界を学び取りたい。私のライフワークの一方の「こころのふる里」構築のための研究対象として。

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昨日と今日の違い

定年退職して無職の生活が4年経過している。昨日は母を川北整形外科(母は膝に注射を二週間に一度打ってもらっている)に送り迎えするという用事があって、買い物にスーパーへよって実家まで帰るとほとんど半日になった。病院やスーパーの中には入らず車の中で待っていることにしている。待っている間、英語の勉強のための本を読んでいる。車の中は家の部屋とは違う空間で、集中しやすい。ただし駐車するところは選ぶ必要がある。病院の駐車場は狭いので、近くの本屋の駐車場に止めている。

さて今日は特に用事はなかった。午前中この時期には珍しく晴れの日が二日続いて、気持ちが良かったので、借りていた本を返しに泉野図書館に行った。いつもの道をゆっくり車で走った。泉野図書館は一階中央が吹き抜けになっていて、二階の壁側2メートルほどの幅で回廊になっていてそこに絵が20点ほど飾ってある。二年ほど前に一度鑑賞していたがもう一度観る気になった。前観たときのユトリロ風の絵はユトリロのようなはっきりとした輪郭の建物じゃなくて、細い引っ掻くような線で輪郭が描かれていた。午前中行ったので読書フロアーはそんなに混んではいなかった。借りた本を返すときは、その本との別れになるので何となく吹っ切れたような気分になる。さあ次の本を読もう!

ひとり語りのような文体

昨日、斎藤美奈子の「日本の同時代小説」を読んで、「赤頭巾ちゃん気を付けて」と「ライ麦畑でつかまえて」の野崎孝一訳の文体が似ていて、一時期一部で流行ったということが書かれていた。60年代の雰囲気がそのひとり語りのような文体に表われていたのだろう。私はどちらも読んでいたので、何となくそのことに腑に落ちる感じがした。

ちょっと人を食ったというか、世間の大人たちに軽口をたたくような語りが延年と続くような文体とでもいう感じなのである。今これを書いてて気づいたが、村上春樹の気障っぽい語りのある文体もその流れに通じているかもしれない。その語り口を真似てみたら自分も何か書けそうな気がする。おそらく村上春樹を最初読んだ人もそんな気がしたのではないだろうか。

ぼくは今66にもなっているんだが、ちっとも爺さんになっている気がしないんだな。まるっきり働かないことにして、僅かな年金だけでもやっていける節約生活をフミコさんと二人でしているので、気分はニートの人とおんなじ気がする。世間とは距離がある感じは似ていて、世間から隠れて生活しているのはいい気分の時もあったりする。生活感を消して小説の中に生きているように暮らしたいんだな。、、、ちょっと私も真似てみた。