彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

「星の王子さま」をめぐって

f:id:hotepoque:20180105203716j:plain

高校の同級生で気のあった友達と読書会をやることにした。いざ街のコーヒー専門の(500円以上する)喫茶店で始めてみると、やや失望感が漂い始めた。彼の小説の読み方と私のでは当然のことながら違いが現れてくる。 客観的と主観的とでもいおうか、彼にとって主人公は他者であり私にとって主人公は私なのである。私の読書は作者と主人公の中に入って追体験しようとするものである。 しかし追体験しようと意志する自分は問われる必要はないのだろうか? 無となって追体験の中に没入してもよいのだろうか? あるいは読書を終えるまでは無であって、追体験で得た私の疑似体験は改めて自分を構築し直す必要があるのではないか? それは読書前の自分と読書後の自分の違いを取り出し、その様相を書くことで何かが生産されることになるのではないだろうか?

星の王子さま」の多くの読者層(母と子と思われる)というものがあるとして、私はその人たちが感じるだろうものとはまったく異質の水脈を引き出すことになりそうだ。 それはヨーロッパの民衆的な良心のような、歴史に埋もれる死者の無言の心情のような、正義の受難のような水脈である。その水を飲むことを選びとって消えていく英雄のように星の王子さまが見える。

この本を中学の国語の授業で知ってから自分でも読んでみようと手に取るまでに、こんなにも年月を経なければならなかったのには、一般に子供向けの本という印象が邪魔していたからだろう。 サラリーマンの間も会社仲間の誰もが読んでいない純文学を自分で決めた基準で読みつないでいたぼくでさえも、この本はパイロットが文学的趣味と才能を捨てきれずに片手間に書いたものだろうという、とんでもない無知ゆえの偏見をもっていた。

第二次世界大戦中のヨーロッパからアメリカに渡り、出版されてほとんど間を置かず作者がマルセイユ沖で偵察機ごと帰らぬ人となる「文学的事件」は、いやがうえにも「星の王子さま」とサンテグジュペリを不滅のものにした。 ヒトラー占領下のパリに残された同胞のことを想いいたたまれなくなる行動派の作家が、自分の死を賭けて子供に託した小説を残したかった決意に触れることになるとは、この本を読む前には想像もつかなかった。 その決意は星の王子さまという子供の物語として描かれているだけに、せつなく、いたいけで、戦時の悲惨と絶望の中にあっても人間的で愛らしさを失わないように「こころ」で語られている。そこに現実ときびしく対峙しながらも文学を信じている高貴な精神があるとぼくには感じられた。ドイツ空軍のメッサーシュミットパイロットたちの中には、彼の部隊と戦うことをできれば避けたいという気持ちがあったそうだ。