彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

グレートギャツビーを読んで

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今のところ、ぼくたち二人のイベントである読書会も「星の王子さま」「デミアン」に続き、「グレートギャツビー」と並べてみるとそこに何となく何かを感じさせるものがあるのではないだろうか? 今回取り上げる小説の発刊年が1925年で、前2作がそれぞれ1943年、1919年だから、二つの大戦を抱える時代に書かれたものということになる。19世紀ではなく20世紀前半の世界文学を無意識的に選んでいる。作家の国籍を見てみるとフランス、ドイツ、アメリカになりバランスよく分散された格好だ。

この流れからすると次回はロシアかイギリス、アイルランドか、スペインとしたくなる。 さて「グレートギャツビー」に戻すと、これは「僕」という主人公が「ギャツビー」という偉大な友人について回顧する設定となっており、それは前2作とも共通していることに気づいた。「星の王子さま」は主人公の僕が飛行機の不時着で出会った少年について書いているし、「デミアン」は主人公のジンクレールが過去を振り返り最も影響を受けた人物について書いている。いずれも主人公が自分のことを書こうとして、どうしても自分にとっての最大の重要人物のことを書かざるをえなかったかのようだ。それは小説を書こうとする時の動機の一つを示しているように思える。

このように見てくるとギャツビーというキャラクターを星の王子さまやデミアと比較するという視点がぼくたちの読書会を通じて可能になるわけだ。これはひょっとすると思いもかけない文芸的な楽しみ方を発見したのかもしれないと思う。

 

サルトルが日本を理解するのに谷崎潤一郎の「細雪」がよかったと来日時に語ったらしいが、そのように小説を読むとして、僕は「グレートギャツビー」を読んでアメリカを理解できたような気がした。アメリカはヨーロッパのような歴史がない分だけ、セレブの世界にギャツビーのような成り上がり者が入っては消えるだけのドラマが演じられる場が許されているのだろうか。

もちろんぼくにそんなことが分かろうはずがないが、全く手の届かない富裕者たちの物語と思って読み始めると意外な出自が途中で明かされていた。運と想像力によって小説にしうる圏内に登場人物がいることにやや親しみを覚えた。(小説にしうるとは読者の追体験が可能な範囲だということだ。)

作者のスコット・フィッツジェラルドでさえ、流行作家となった後あまりの散財から経済的困窮に陥ったことがあったらしい。だからこの小説は必要以上に雲の上の話としなくてもいいかもしれない。前回読書会で「デミアン」を取り上げたが、敗戦国ドイツのアイデンティティ回復の小説が発表された5年後に、戦勝国アメリカの元将校の恋愛事件を描いた「グレートギャツビー」が出版された。このほとんど同時代の二つの小説を読み比べてみると、ドイツとアメリカがあまりにもかけ離れている(格差がある)ことに驚く。とても同時代とは思えないと感想を持ち得たのは、一つの収穫かもしれないと思った。