彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

サルトルは古いと言っている人が古い

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「本書(存在と無)には、哲学的にはヘーゲルフッサールハイデガーの到達した以上のものはないと考えている。サルトルの独自な文体で、3人の哲学を晦渋に言い直しただけだ。」______このようなサルトル読解があり「今日では、彼の思想はずいぶん色あせたものとなってしまったようにみえる」(苫野一徳氏)としている。
http://ittokutomano.blogspot.jp/2012/01/blog-post_4630.html

 

だが私はそうは思わない。サルトルにとって哲学は自分の発見した実存の真理を解明する手段にすぎない。存在の現象学的記述を生きたものにするには文学が必須であった。サルトルは学が問題ではなく(学としても成立しているが)、自由な人間が歴史的存在に至る過程を自覚的に示そうとしたのだと思う。自由であることは現在ではマルクス主義者(共産党ではない)であることを存在論的に証明して見せたのではないかと私は考えている。

(ちなみにダライ・ラマも自分はマルクス主義者である、と言っている)