彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

2015年9月のころの日記から

シルバーウィークの街中を見物してみようと、妻と二人でバスに乗って出かけた。半年ぶりで会うテニス仲間の友人とのランチ会が街中に出るきっかけだったが、ちょうど鴨居玲展を観るタイミングにもなった。

没後30年ということは1985年に亡くなられたことになる。(それは私が結婚した次の年になる)鴨居玲の奥さんはデザイナーということも影響していたのか、空きスペースを広くとる構図とか赤単色の絵などは私にはデザイン風に感じられた。 ご本人の写真も併設されていて、妻いわく「岩城滉一似のイケメンね」に私も同意した。

美大の頃は宮本三郎の生徒だったが画風は先生とは全く違う。繰り返し自画像が試みられていることからも、自身の孤独な内面を凝視することから視えるものを表現している。それは対象をはっきり描くことではなく、対象がいわば内観から立ち現れるかのようにぼんやりしている。 それは妻が「なんかぼうっとしている」と言った理由を考えていて気付いたことだ。近代の主客二元論ではないということだ。(自分とモデルとを対置しない)

観終わって美術館から出て、香林坊に降りる坂道で感想を述べあった。「あの人の作品には完成がなかったのかもしれない」「それだけずっと一つのことを追求し続けて、いつも本当の満足には届かんかったのかも、、、」 金沢生まれの画家や作家、有名人だとこれまで、三文豪や鈴木大拙西田幾多郎など近代の人ばかりだった。鴨居玲桐野夏生を知ってようやく私の金沢文化観がポストモダンに移行することができた。

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