彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

芸術が漂いだす日常の割れ目

退職してから1年半の間、ぼくの精神状態は情緒不安定のところがあった。しょっちゅう気が移ろいでいて、落ち着きがないというのではない。どちらかというと日単位で気が変わるというのか、予定も変わってしまう。職につかず自由時間ばかりという環境で15ヶ月ばかり過ごしてきたが、悠々自適というには程遠く、ついついパソコン漬けになってしまって、他人のフェイスブックを覗き歩いて「今」を感じて、安心したりしていた。そんなぼくだから、何か継続できることを選んでやり続ける習慣を作ることにして、なんとかやっていた。早朝の長編小説の読書と、月曜から金曜までのNHKラジオ基礎英語、週一のテニスレッスンと、軒の図書館通い、軒のパン屋のローテーションでの食パン買い、バスと徒歩での金沢散策等々。しかし、習慣になるとなんだかつまらなくなる。これは違うのではないか、ちっとも面白くない単調な毎日というのは。

もともと美大を選択したことからも分かるようにぼくは、自分でいうのもなんだが、芸術家タイプなのだ。(偉そうですいません)退屈するような時間は最大の屈辱というか野暮の極みであり、つまらない日常などは、「否定」されなければならない。そしてそれができる環境にいるわけだから、誰に遠慮する必要もないわけだ。思い立って、ジェームスジョイスの「ユリシーズ」を手に取ってみたのだった。埴谷雄高が世界で二番目に優れた小説だと言っていた。

一番目は何かというとプルーストの「失われた時を求めて」なのだ。日本文学の小説は何番目だか忘れてしまった。小説の優劣の基準がどこにあるのか埴谷は言わない。とにかくそうだという言い切りに納得させるだけの「教養」の広さと深さがある。おそらく現実からどれだけ離れていて自由か、というのが一つの基準のような気がする。「ユリシーズ」には自由があって、芸術家の魂がゆり動かされるといえば、大方の文学愛好家は納得するのではないだろうか?

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