彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

公民館の読書会でマルケス

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 野々市市(ののいちし)の公民館の読書会でぼくが当番になった時、コロンビアのノーベル賞作家ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」を課題本に取り上げた。果たしてちゃんと読んできてくれるのかそもそも心配だった。これまで海外の小説を取り上げたことがなく、題名を聞いて「なんか恐そう」と言っていたおばあちゃんもいたからだ。80代のおじいちゃんはちゃんと読んできていて、面白かったと言った。若い頃から本を読む習慣ができていると齢をとっていても、現代の世界文学にも読み取る力があることが分かった。

そのおじいちゃんは気さくで場を盛り上げることができる人だ。若い頃には「ファウスト」を読んで感銘を受けたらしい。全くインテリっぽいところがない、カラオケの持ち歌も多い楽しい爺さんだ。まだおばあちゃんというには早すぎる、文学少女のままの知的好奇心を持った女性がいて会の中心的な存在になっている。彼女は源氏物語を読み通していて日本の古典にも明るい感じをコメントからうかがえる。彼女はなんとマルケスの「大佐に手紙は来ない」も読んでいた。

ぼくが「予告された殺人の記録」に出てくる求婚者の父のペドロニオ・サン・ロマン将軍はその大佐の敵側の将軍であることを指摘すると、ああそうかと言ってくれた。そのようにマルケスの小説は同じ登場人物が出てきて繋がっている「大小説」なんですと言い、これはバルザックの「人間喜劇」の手法を踏襲していて村上春樹もその意識があるみたいです、とぼくはちょっとばかり得意になって世界文学を解説した。(バルザックは「谷間の百合」を読んだくらいなのに偉そうで反省している)

とにかく心配していたことはあまりなかった。というのは前回来てたメンバーで欠席したのが二名だったからだ。(もっと欠席者が出ると思っていた)