彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

大江健三郎「日常生活の冒険」を読む

今「日常生活の冒険」を読み終えた。60年安保や広島の原爆という政治に関わった一世代先輩の小説家の、私小説に近い物語は暗澹としたものだった。「洪水はわが魂に及び」を読み終わった時も同じ感想を持ったが、この作家はどうしてこんなにも左翼の肩を持つのだろうかというものだった。時代とともに生きるという作家的心情は、あまりにもエリート臭があり隔たりを感じた。村上春樹もこの小説を読んでいて最初の「風の歌を聴け」を書いたように感じられた。村上春樹はフランス文学のやり切れなさからアメリカ文学に移って学ぼうとしたが、ある著名な文芸評論家が言っていたように、彼も先輩と同じ道を歩いていると思った。

自分の人生をドラマのように生きられたらどんなにいいだろう。自分でドラマの脚本を書いてその通りに生きてみる。もちろん衝突とか挫折はあるだろうが自分が主人公として生きている実感のもとに、乗り越え自分の人生を進んでいく。おそらく「日常生活の冒険」というタイトルから受けるのはそういう期待感だ。
この小説を読んで作者の、あるいは主人公の冒険物語を追体験したあと、今度は自分の場合はどうなんだろうと考えるのが生産的な読書になる。ぼくはどちらかというと「ぼく」の立場、つまり作者の側の人生に近い(と言ってもスケールは全く違うが)だろう。行動する友人、斎木犀吉を近くで見て憧れたり影響は受けるが、結局はそのようには行動せず、自分のできることや考えることの中に帰っていく人生だと思う。

ぼくが影響を与えようとする時には、自分の世界を創り上げてそこに共鳴してくれる人ばかりを集めて自分が主人公になるやり方をとるだろうと思う。それがぼくの「方法」なのだ。では自分の世界はどうなのか、それはどんなドラマなのか、、、


斎木犀吉はヒーローなのだろうか?これまで読書会で取り上げた「星の王子様」や「デミアン」や「グレートギャツビー」のようなヒーローと比べるとき、何かくすんで、胡散臭いところを感じて手放しで受け入れることはできない。心からの共感はない。あくまで大江健三郎の青春だった時代のヒーローで、サルトルが描いたロカンタンのような、時代を超えたヒーロー(アンチヒーローと呼ぶべきか)にはなりえていない。

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