彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

大江健三郎「日常生活の冒険」を読む

自分の人生をドラマのように生きられたらどんなにいいだろう。自分でドラマの脚本を書いてその通りに生きてみる。もちろん衝突とか挫折はあるだろうが自分が主人公として生きている実感のもとに、乗り越え自分の人生を進んでいく。おそらく「日常生活の冒険」というタイトルから受けるのはそういう期待感だ。
この小説を読んで作者の、あるいは主人公の冒険物語を追体験したあと、今度は自分の場合はどうなんだろうと考えるのが生産的な読書になる。ぼくはどちらかというと「ぼく」の立場、つまり作者の側の人生に近い(と言ってもスケールは全く違うが)だろう。行動する友人、斎木犀吉を近くで見て憧れたり影響は受けるが、結局はそのようには行動せず、自分のできることや考えることの中に帰っていく人生だと思う。

ぼくが影響を与えようとする時には、自分の世界を創り上げてそこに共鳴してくれる人ばかりを集めて自分が主人公になるやり方をとるだろうと思う。それがぼくの「方法」なのだ。では自分の世界はどうなのか、それはどんなドラマなのか、、、


斎木犀吉はヒーローなのだろうか?これまで読書会で取り上げた「星の王子様」や「デミアン」や「グレートギャツビー」のようなヒーローと比べるとき、何かくすんで、胡散臭いところを感じて手放しで受け入れることはできない。心からの共感はない。あくまで大江健三郎の青春だった時代のヒーローで、サルトルが描いたロカンタンのような、時代を超えたヒーロー(アンチヒーローと呼ぶべきか)にはなりえていない。

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