彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

自分という存在をどう作るか

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企業を定年退職して社会との関わりは圧倒的に小さくなった自分をここで原理的に分析してみたい。

会社の中での役割や肩書きによって、自己と他者の関係が一定の世界内で保たれていた。ぼくなんかは自分を殺して役割に徹していた方で、ほんとうは鬱陶しいはずなのにそれを感じなくさせていた。だから感性がサラリーマン38年間でとてもクールになっていたと思う。愛情のない、相手の気持ちにおかまいなしの機械人間に成り果てていたと今では「反省」することができる。ところで、居場所が変わって無職という存在で、どう自分を存在させればいいかという難問に多くの定年退職者とともに遭遇している。これはぼくと同じ環境にいない人(特に女性)には分からない問題だと思う。「サラリーマン定年後の悲劇は「男」という性の宿命である - 中央公論.jp」を読んでもらえれば少しは分かってもらえるかもしれない。

さてこの問題を抽象的に置き直すと、主体をどう存在させるか、ということになる。主体というのは自分が主人公でいられるあり方のことだ。主体がうまく作れないと「書く」こともできないはずだ。ぼくの周りにはフェイスブックをやっていても、文章をアップする人はほとんどいなかった。

どこそこへ行ったとか、何を食べたとか、誰かとゴルフをしたとかそれに類することを写真でアップするのに、「私」はこうしたということを感じたままに文章にすることはしない。文章を書くことが面倒なのは、哲学的には主体がないからだとぼくは思っている。ではどうすれば主体を作れるか、それは書くしかないので、書き出すには何から書けばいいかを考えることだ。とにかく書く題材を持つということだと思う。