彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

1968年の観念

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自己を超えて時空を超えてエネルギーを湛えるのが、観念だ。ぼくが大学生だった頃、地方ではあっけらかんと静かだったが、東京は創造的な雑然とした風景と幾分悲しみを含んだ緊張感があった。美大祭では遅ればせながら映画研究会がルイスブニュエルの「アンダルシアの犬」やエイゼンシュテインの「戦艦ポチョムキン」を上映できていた。その上映グループは年に数回は東京に出てデモに参加するような先輩たちだった。ぼくは大学に入って居場所がなく、なんとなく彼等に近づいていった。

会うとまるで小さい頃から近所で遊んでくれたお兄さんのようだった。ぼくらは日共や社会党などの既成左翼のつまらない(議会主義的なともいう)実践に対して、想像力を是とする「観念」を重要視した。でも観念の現実的な限界というものもわきまえて、惰性に流されないように注意はしていた。

客観的と称する機械論のような「正義」には心を動かされなかった。

「観念」には生きた心があり、自由と同じように共鳴するものたちを支配し、夢を伴った行動を促す力があった。しかしそれは時代や状況と共にあり生きたり死んだりするので、1968年の観念がとびきりであった。

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