彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

愛に包まれたなら

f:id:hotepoque:20180216154528j:plain

狭い日常生活の範囲内で幸福でいられる心の状態には、愛に包まれている感覚がある。ぼくがトルストイを読んでいた間はたしかにそんな感じがしていた。仏教を唯識から学んでいた時には、無限の広がりのなかで落ち着いていられたが愛の感覚はなかった。仏教では孤独でありながら心は充実していた。トルストイ白樺派の文学には、キリスト教の影響なのかは確信はないが、自分が包まれているような感覚があって一人なのに孤独ではなかった。自分が内面で充実しているというより、やはり周りが充実しているのだ。共同体の中にいる安心感に近いのかもしれないが、もっと甘味なものが漂っている。

もし本当に白樺派の文学がぼくにそういうチカラを与えてくれるのなら、退ける理由はないのではないだろうか?

たしかにモダニズムやその極致であるデカダンシュールレアリスムはないかもしれないが、自然の大地にしっかり足を踏ん張り、ミレーが描いたように感謝の祈りを捧げる農夫の幸福は手に入るかもしれない。ただ、ぼくの住んでいる時代は近代をくぐってきており、二つの世界大戦でのおびただしい死者を忘れることはできないと気むずかしく考えないなら、それもOKなのだが、、、