彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

内面の自由を耕す(続き)

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唯識を学ぶことによって、自分のこころがいわば緊急の避難所になった。とりあえず自分のこころに引きこもっていれば安心できたので、会社からの帰り道の書店で、今度は哲学関係の本を見つけることになる。もともと考えるのが好きな性格なのと、哲学には原理的に解決策を考え出すところがあって、答えには個人差のような曖昧性が入り込まない利点がある。ぼくが出逢った哲学者は竹田青嗣で、この人は哲学科出身でなく、フッサールを独力で読んで西洋哲学を「解明」した経験から、有名な哲学者を分かりやすく解説でき大いに勉強になった。初めて哲学が分かったような気がした。少し哲学に馴染むと、なぜ社長の言葉でぼくが存在を脅かされるほど動揺したのか、何がそこで起こったのか論理としてたどれるようにしたいと思った。論理的に決着をつけたかった。ぼくは就職はしても技術や能力を提供すれば良いと考えていたのに、社長はぼくの存在までも所有しようとしたと考えた。立場は対等とするぼくの態度が気に入らず、自分の支配下に置こうとしたのだと思う、、、、、

いや、そういうことではない。過去の起こった事をそのままなぞろうとしても意味がない。社長とぼくの間に起こった事はぼくの生き方の延長線上で見なければ「人生の意味」にはならない。それは物語の形式で語られる必要がある。人が生きていくには物語が必要だからだ。社長は経済的物語の中で、ぼくを評価し生き続けるだろう。しかしぼくは別の物語を作ろうとしている、そう、資本主義の一般論が通じない世界で物語を綴るのだ。そのためにぼくは書くことを覚え、サルトル哲学や村上春樹などの小説を読んできたのだ。