彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

遅すぎる気づき

      f:id:hotepoque:20180220105554j:plain

これは認めるのが恥ずかしいのでブログに書かないでおこうと思ったが、思い直して書くことにする。ぼくという男がどういう人だったか記録のために。それは自分が女性との付き合い方がわからず、付き合ってくれた女の子に徒らに悩ませるようなことをしてきたと、今更ながら気づいたということだ。なんと30~40年ほど経って気付くというようなことがあるだろうか?おそらくサラリーマンを辞めて昔を思い出すことに制限をつけなくなったからこそ、ぼくのこころの中に起こることなのだろう。古風というのだろうか、ぼくは村上春樹のようにセックスにはオープンになれなかった。状況を作ることができず、酒を飲めなかったのでリラックスする利を使えなかった。

そういえば、彼女がぼくの視線をそらさずにずっと見つめるのを、長すぎるのはぼくを責めていると受け止めたことがあった。あの時関係は終わったのだが今から振り返ると、それはぼくを試していて、それまではぼくをパートナー候補に考えていた気がした。知り合ってすぐの頃ぼくの実家に尋ねてくるほどの行動派の女性だったから。彼女が結婚した相手の男はどことなくぼくに似ていた。そういうことは別の彼女にもあった。ぼくも結婚して何年か過ぎた頃突然手紙が来て、パートナーの男はあなたに似ていると書いてあった。