彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

1982年5月18日付の日記から

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どういうところからでも「小説」は始まると思う。入り口はきっとある。例えば夜友人から電話である過去が思い出され、未だに決着の付いていない問題に再び取り組み始めるというような。「小説」を実生活からどこかで隔離して育てる必要があり、「問題」を考え反芻するのは「小説」の中である。あまり気取らずにできると思える範囲でとにかく一つは作ってみようと思っている。何よりもぼくに必要なのは自信なのだから。

京都で夜友人とジャズバーで飲んだ時に、その店でバイトしている女の子とちょっと話した。気になったのは彼女が自分を悪女のタイプと決めて、ほとんどそれを信じていることだった。途方もない独りよがりにしか思えなかったが、全然悪びれるところがなく、この頃の女の子はこうなのかと納得しようとした。信じればそれが通じるという範囲内で彼女は生活しており、それをあえて幻想だなどと野暮な忠告をする人間をはじめから追い出しているのだ。しかし悪女は努力すればなれるものかもしれないと思った。(彼女はどうして自分を悪女だとぼくに言ったのだろうか?)

ちなみに僕の悪女のイメージを書いておきたい。

それは形はなく、目に見えさえしないが、しかし心に直接訴えかけてくる何かである。可愛らしく、豊かで明るく、思いっきり贅沢で、オリジナルであり、所持する何かではなく、存在であり、甘い優しさを含み、子供っぽく、皮肉屋で高慢で、挑戦的であり、いたずらっぽく、都会的で、意地っ張りで、怠け者で、純情で、悪を受けつけず、夢見るような顔つきをしている女性の持つイメージである。