彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

自分はどこから書くか

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どこというのは時間と空間の両方から規定できる。いったい時間の流れのうちどこかという問いと、いったい空間の中のどこかという問いがある。いや間違ってしまった。前者は普通「いつ」というのだった。いつというべきを時間でもどこと言ってしまったのは、時間を空間的に見ていたからだ。時間は一本の線として空間的に表象できる。ベルグソンに詳しくないのだが、確か「生きられた時間」という観念があったと思う。主観内の時間のことで、ぼくは「生き直すこと」をこのブログを書く目的の一つとしているので、ぼくの意識の外にある、いわゆる社会的、経済的、歴史的な時間については取り上げないことにする。

例えば今流行している音楽にはぼくと接点がないし生きていない。ぼくが生きた音楽は過去の思い出と共にあり、そこに生きられた時間がある。だから、毎日過去のロックやポップスやジャズやクラシックをiTunesに入れて聴いている。1965年から1973年までのヒット曲が多くなっている。その期間の音楽との出会いと思い出の蓄積がぼくの濃い、生きられた時間になっている。

さて、生き直すのはいったいどこからなのかという問いだった。起点とか原点とか出発点が大事だと思ったのだ。生物的な始点ではなくて、初めてぼくが生きようとした始点はどこで、そこで何が起こっていたのか?

中学を卒業してしばらく経って、何日も悩んだ末思い切って同級だった女の子に初めて電話をしてデートの約束をした時、ぼくは生き始めた、、、と書くことにする。いや、違う気がする(つづく)