彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

転換し始めた意識1

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これまで書く動機を支えていた主体形成の始源への回想がしぼんでしまった。それは定年後の自分の否定から遡って原因を探るものだったが、現在を肯定してもいいのではないかと考え始めたことと軌を一にしている。またそれは学生運動から切れることはあっても、世界観は受け継ごうと思っていることに変化が生じてしまったことも影響している。人間が作り出したものより人間そのものの方が優先するヒューマニズムに生きるべきではないかと考え始めている。芸術より実生活の方が何倍も大切であり、現在の方が過去より何倍も重要であり、一人でいる自分より友人や妻と一緒にいる自分の方が何倍も大事である。

平凡で退屈なこともある日常の、現前しない環境の中に、かけがいのないものが潜在しているのを感じる想像力を磨き続けること。

要するにすべては現在のために過去のあらゆるものがあるのだ。現在を充実して生きるために、芸術があり、たとえ不幸や危機に陥ることがあっても、その表現がいかに巧みであってもそこから魂で回復してくる過程の方に、芸術の価値があるとするのが真であるように感じられる。