彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

文学趣味の仲間たちへ

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今読みかけの小説を挙げてみると、玉川図書館から借りた井上光晴「黒い森林」、野々市図書館から借りた福永武彦「死の島」、昔買ってあって書棚に眠っていた野上弥生子「迷路」、高校一年の時に読んで再読したいと思っていたゲーテ「若きウェルテルの悩み」などである。小説以外ではサルトルの「存在と無」をそれこそ2,3ページずつ読み進めている。

それぞれ読みたい理由が存在するのだが、あえて一つの理由に絞るとしたら、自分を緊張状態に置きたい、ということになるだろうか?起きている間中ずっと緊張しているわけにはいかないが、ある時間集中することがないと1日を過ごした気にならない。その小説の世界はどこかに危険や異常なことが潜んでいて、安楽に進むことを許してくれない。脳に刺激になることだけは請け合える。

通訳で名エッセイストの米原万理の書評集のタイトルが「打ちのめされるようなすごい本」というのだが、ぼくはこの打ちのめされる感情体験が文学を支えているものだと思っている。一度体験してしまうと薬物のような作用をすることもあるので注意は必要であるが、、、

ローレンスブロックの小説にはアル中自主治療協会がよく場面に出てくるのだが、それは小説中毒の読者にも癒しを与えるひと時になっている。