彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

転換し始めた意識3

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どうしても飽きがくる時、嫌が応にも前進させられる。あるいは別のどこかへと移らされる。そうしないと活力が失われるように人間の心は出来ている。かつて何回も聴き込んでいた歌をある時ふと耳にして、ああこれはもう自分の中では終わっていると感じられる時、それが今なのだが、前進か転移を促される。その歌にどうして飽きが来たのか、その歌に共感していたフィーリングがどのように変化しようとしているのか?

おそらく青春の頃に帰って「叫んでいる」状態に何か創造性を失わせるものがあるらしい。だが年をとった現実に戻ったのではない。ただ若い頃のように叫んでばかりいては現実は動かないことに気づいたのであり、その先に行くことが求められているのだ。そうだ、破壊であり、ディストラクションだ。若い頃に帰って自分を取り戻すという枠組み自体を脱構築しなければならない。

就職して社会に出るとき、ぼくは学生身分で培ってきた自由に属する価値観を捨て去ることにした。38年間のサラリーマン生活から離脱したとき、もう一度学生身分の価値観を取り戻そうとして、文学世界に仮想的に生きてみた。そして今、その目論見の脱構築を試みたくなったのだ。

文学の世界では人生を二度生きることができる。想像力を働かせて実際の人生とは違う歩み方を書くことで作り出すことができる。小説のように芸術の域にいかなくても、例えば自伝のようなものは書けるはずで、必ずしも事実の羅列に終わらないとすれば書く視点の創造だけはあるはずである。その視点は二度目の人生を作り出す地点になっているはずではないだろうか?