彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

文学は生か死かの現実の前では無力ではないか

文学の成立を人間性の中で解明しようとする時、「弱さ」が根本にあるという直感がある。「弱さ」の徹底的掘り下げにはある種の強さは認めるが、それは強さの掘り下げとはやはり違うものになるはずだ。「弱さ」には真実をそのまま受け入れるという覚悟が足りない気がする。実もフタもないむき出しの真実が目の前に現れてたじろがず、大地にしっかり立ち尽くすには文学ではあまりにも懐が深すぎると感じる。生か死かしかない現実を壊して、夢とか死後の世界とか想像力を持ち出してきて新たな現実を作るのが文学だ。いかにファンタジーにリアル感があろうと砂上の楼閣であって、客観的数字によって再現性が保証される世界ではない。ある人たちには真実であって、別の人たちには真実ではないというのでは、そもそも世界が成り立たない。自分を戦わせ自分の限界を知るには、世界という厳密な、あえて言えば資本主義社会の網の目の中に自分を置く必要がある。その世界を認識できなくてはならない。想像力ではなく、学としての把握が必要とされる。65歳の誕生日をもうすぐ迎えようとする今、ある覚悟が自分に迫ってくる。それは瞬間的にして永遠なるものだ。