彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

65歳からのチャレンジ

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あと1ヶ月で65歳の誕生日を迎える。通過点にすぎないと思う。定年退職して毎日フリーの状態を、共働きだったので妻の退職も昨年から合わさることになって、4年間過ごしてきたことになる。孤独になったり病気になるという状態を避ける工夫に気を取られてきていて、それはネガティブ状態の対応というスタンスだった。ポジティブを一からスタートさせるという健全さがなかった。健康に気を遣うというのではなく、健康そのものから自然に動き出したくなるという方へ向かうべきだった。過去ばかりに向かうことが多く、クリエイティブな将来を描くことができなかった。歳をとったことで得られている経験の厚みを生かした、ある意味冒険的なチャレンジを始めたいという気力が芽生えてきている。例えば

英語のスピーキング能力を身につけること。

一つのテーマで論文を書いて投稿すること。

一冊の本を集中して読了すること。

今生きている現在を記述して存在させること。

そんなことは冒険ではないというだろうか?冒険するとは言っても無謀なことはできないのであり、どこが冒険なのかは把握されて確率を予想できる状態にあるはずだ。英語のスピーキング能力については適切な習得本と先生が見つけられたことで、最初のツカミの感じが得られている。論文については、学問形式に対して公正な見方ができるようになって、改めて挑戦する場のようなものが見えてきた。三つ目は最も達成が容易に思えるものだが、これは自分の性格や癖の改善を含むので意外と難しいかもしれない。なぜこれをチャレンジとしたかは、読解力の大幅な深化を目指したいと思ったからだ。一冊の本を書き上げた作者の全作業を物心両面で再生産することを目指している。サルトルフローベール論は凄まじく膨大なものだ。それは書く前に読む作業が凄まじいレベルにあることを思わせる。一人の作者に対する評論の全守備範囲に対して自覚的に見てみたいという欲望がぼくにはある。

四つ目は究極のチャレンジともいうべきものだ。「イワンデニソヴィッチの一日」や「ユリシーズ」におけるダブリンの1904年6月16日がこのテーマに属する小説であるが、小説以外でも方法があるのか、どのように達成しようとするのか探る段階から始めるチャレンジになる。現在の場所を「故郷化」して世界内存在として自立する、それは資本主義的生との対決の場になる、というようなエッセイになるかも知れない。

とにかくチャレンジを始めようというのである。どこかに無謀な匂いがする気がしないでもないが、十分冒険なのではないだろうか?