彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

「アサッテの人」を読む

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日本の現代作家では大江健三郎村上春樹福永武彦井上光晴村上龍野間宏丸山健二埴谷雄高や小川国夫や辻邦生加賀乙彦真継伸彦池澤夏樹などの小説を求めて読んできた。女性では石牟礼道子や米谷ふみこや金原ひとみや増田みず子などの小説を思いつくままに読んだ。ちょっと系列から離れるように水上勉リリー・フランキーカズオ・イシグロ内館牧子の話題になった小説、最近の芥川賞受賞作家の沼田真佑や若竹知佐子も今を知りたくて読んだ。そんな中で今回の諏訪哲史は誰とも似ていない若手の作家だった。あえて言うなら日本のカフカと言いたくなるような世界にいる作家のように思えた。諏訪哲史を知ったのは、文芸評論家の富岡幸一郎の推奨によってである。この評論家が村上春樹の「1Q84」の社会現象に隠れて諏訪哲史のような新人を取り上げて論じないのは、文芸界の怠慢であるようなことを言っていたのが気になって、「アサッテの人」を読んでみようと思ったのである。

確かに世界文学に通ずる小説の批評性を持ち、方法と格闘している文学通の新人であり、文学に生きる覚悟を持った男性的な文体の人だと思った。しかし、ぼくの世界観とは異質であった。意味のない言葉への執着はニヒリズムとは異なる虚しさに行き着き、文学の無限大の自由には行かないとぼくには思えた。社会や歴史という豊かな鉱脈とは断絶し、むしろ私小説的な人間世界に閉じ込められるのではないかと感じられた、、、この感想は暫定的なものであることを付け加えておくことにする。