彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

アンサンブル金沢のように

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最近書くことと言ったら小説の世界のことではなくて2018年のこの今に生きている現実のことになってきているが、この前向きな意識の変化をそのまま延長していくとどうなるかに興味が湧いてきている。これからはますます老人に近づいていくので明るい未来はないのではないかと悲観的になるのがこの年齢の大方の意識状態と思っていたが、金正恩の顔が意外と善人に見えてひょっとして戦争から緊張関係が緩む方向に行くかのごとく、楽天的な気分がぼくの未来を照らし出してきている。マスコミにとらわれて自分の判断ができない人にとっては、自分の感じ方よりマスコミの論調に追随するしかないのだろうが、たとえ自分が間違っても自分の直感を信用して歴史的現実を見る方が得るものが大きいと思っている。(こんなことは自分のブログでしか言えないことではあるが)

さてそんなことより社会的に、つまりは資本主義的には商品として無価値な年金生活者が実存的には何かを生み出せるかの方がぼくには興味のあることなのだ。ぼくを含めて日本人に個人というキャラクターが乏しいのはTOKIOをめぐる報道でも確かめられるのだが、ぼくのような年金生活者こそ個人として十全に生きる環境にあると思う。その生き方を全体的人間(一つの専門に固まってしまうのではなく)としての個人の生き方として追求してみたいと思っている。金沢という一地方都市に住んではいても、コスモポリタンの一員として生きたいと言ったらいいか、、、

昨日夜Eテレアンサンブル金沢サントリーホールでの講演を録画で放映していたが、楽団員は金沢の人かどうかは分からないのだが日本人と欧米人が混ざっていて、その人たちの映された顔を見ていてこれがコスモポリタンの個人の集まりだと心の中でぼくは叫んでいた。彼らのようにぼくも生きたいと。