彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

「終わった人」にとって勉強とは何か

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サラリーマン生活を38年間もやってきて、多くの一般人の平均的人生というものが終わってみると、なかなか38年間の垢のような常識をぬぐい落とせず、自由にはなれない。自由になるためには全く個人的にゼロから始める勉強が必要になる。これまでの全学習は、ということは学校教育も含めて、企業に入って協調して組織にとって利益のある成果を出させるためのものだった。現在ある制度を前提として価値を生み出す能力を身につけさせるものだった。前提を疑い切り崩すようなことは許されなかった。それをやれば社会的制裁を受けることになっただろう。

例えば英語を勉強するとして、ビジネスに使うことは既になく、海外旅行で買い物や観光に必要になる程度の英語などは勉強のうちには入らない。それなのにどこか英語の勉強に惹かれるものがあるのは何故だろうか?どこか深いところで自分をもう一度再生させたいというような欲望が感じられる。

凡人としての人生を終わって、別人格の個性的で魅力的な男を「英語」を活用することで創造することはできないものか?それは英語を普通に喋る国際感覚の身についたナイスガイでなければならない、、、、いや、間違ってしまった。別人格なのはあくまでサラリーマンのような社畜ではない、という意味だ。別人格というのは、もう一人の自分を英語表現を使う現代人としても持つということだ。英語がわかるという体験をしてみたい。ちょうど、一冊の小説を読んで作者の言いたいことが分かるのと同じような体験を英語のどこかの表現に出会うことで体験してみたい。「なじんでくる」という感じを持ちたい。要は書かれた文(表現)から逆算して、作者の経験のリアルを追体験し自分の中に取り入れるかにかかっている。、、、しばらくしてマーク・ピーターセンという人を知ることになる。彼の著書、岩波新書「日本人の英語」はその手の本としては必読書となっているらしい。