彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

長い私語

今日は長いつぶやきになりそうだ。つぶやきは短いから、私語という硬い言葉にすればいくらでも長く書けそうな気がしてくる、だから言葉選びは大切なのだ。ぼくが書きたいという気分になる時は何かモヤモヤするものが発生する時が多いのだが、今日は昨夜からの落ち込んだ気分からの回復を目指そうとして今、パソコンのキーを叩いている。落ち込んだ気分は久しぶりで、ユーミンも昨夜はブルーだったと笑っていいともに出演した時に漏らしていたのを思い出して、気休めにした。というか、何か自己表現をする人には必然的な、受け入れるしかない心的環境なのだろうと幾分自惚れてもいる。落ち込んだ気分といった現象にも必ず原因があるはずで、思い当たるのはこれからは勉強するんだと意気込んでいて、しばらく小説的世界から身を引こうとしたことなのではないか、と自分の心に訊いてみた。勉強を学問と言い換えてみると、学問の世界には厳密で稠密な、先生と生徒の関係があってその関係の中に入っていくことで小説的な世界の自由さを失うと感じたことが影響しているかもしれない。ある意味全てが虚構の世界と客観的に正しさの要求される世界では、身構え方が異なるのは当然なのだが、ぼくの意識の潜在的な部分ではそれについていけないと言っているのかもしれない。小説的な世界ではこのブログを書いているように、自分が自分の世界にいることができる。しかし勉強する時は自分が裸にされる。読んで書いてあることがわからなければ、ぼくの能力が裸にされる。嘘、ごまかし、自己欺瞞は通らない。そうするとちっぽけで無能ではたまた無名な自分というものが露わにされて、落ち込むのだ。

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勉強しようと思ったのは英語である。今更どうしてかはもうブログに書いたが、英語という言語によって日本語の自分とは別人格になれるとある日突然ひらめいたからだ。村上春樹は「風の歌を聴け」を英語で書いてから日本語に翻訳して、さらにいくつかの章にバラしたものを配置しなおしたりして書いたらしいが、それは英語の方の人格にならないと書けなかったという問題に関係している。自分の存在が書いたものの中にある小説家は特殊な存在ではあるのだけれど、退職して働かなくても食べていける環境になっているぼくにとっても、その人格の問題はとても興味深い。