彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

「こころ」を読み終えて

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昨日「こころ」を読み終えていた。やはりすごい小説だった。15年ほど前に一度読んでいるはずなのだが、大筋の展開は覚えているもののほとんどを忘れていた。単に名作だったで特にすごいとは感じなかったように思う。今回はKの自殺した部屋に血しぶきが広がっていたのが映像として感じられるほど、リアルであった。すごいのは先生がKにあれほど怖れから冷酷になれるものかと感じさせられたことだ。逆に言えば先生が自分の心の悪を暴き出す執拗さがすごい。「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」___Kを言葉で殺せるとKの性格を知り抜いているからこそ、用意周到に準備されたセリフをジャストのタイミングで言い放った。良心があれば絶対できないような、知識人として卑怯なことを、Kにとってほとんど唯一の友人である先生が嫉妬からとはいえやってしまった凄さなのである。そのセリフは先生の手紙の中にしか記録されていないし、もとより言葉は一般通念では凶器にはならない。でも思想や宗教に専念しているものとっては、言葉は武器になりうる。そのことを先生のような人は知っているはずなのだ。だから自殺ではなく他殺であり、先生は自分が犯人であると自覚してその場面に直面している。夜中に部屋で自殺を図った友人を見て、すぐ死んでいるものとして明け方まで放置して助けを呼ばなかった。その放置している時間、ただ部屋をぐるぐる回っている異常さを思い浮かべると「人間らしさ」のかけらもない。Kと論争になることがあって先生の論拠が「人間らしさ」だったにもかかわらずにである。

僕の関心は作者の漱石自身にそのような友人を自殺に追い込むような体験があったのかというものだったが、教師時代に教え子を厳しく叱ってその教え子が自殺したということがあったらしい。(その典拠を詳しく調べたわけではないが)

「こころ」は新聞に連載された小説であり、サスペンスの要素も職業作家として入れ込んで入るから私小説リアリズム小説のようには読めないことはぼくも承知している。でも当初の構想を崩してまで先生の手紙による告白にスペースを割いた理由を考えると、漱石自身にも似たような体験があったと考えてもおかしくない気がする。