彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

妻はどこにいるか

書くことで意識の空間ができるので書き出していくと、次第に自分が膨らんできて自分がそこで息を吸うようになる。息を吸い始めると生きている感じが生まれてきて、考えることもできるようになる。そうだ、書きながら考えるやり方が最近身についてきた気がする。書いたものの中に自分を置いて、その自分と対話するために書き始めるのだ。昨日妻について書けたので今日も妻を登場させよう。しかし、どこにいるのだろうか?どこに行って連れて来ればいいのだろうか?

彼女は今、61歳だ。ぼくのことをどう思っているだろうか?ぼく達夫婦は子供ができなかった。だから、お父さんと呼ばれたことがなく、ぼくもおかあさん、あるいはママと妻を呼んだことがない。一般的には友達夫婦というカテゴリーに入るのだろか?

妻はどこにいるかと問うて、ぼくの横にいるらしいことに気づいた。前にはいないのだ。だから妻のことは表面的にしか分からないのだという気がする。時にはぼくのことを自分のことように話したりする、友人たちの前や近所の井戸端会議の場で。そういう時の妻のことを思い浮かべるとぼくはどういうわけか、涙ぐんでしまう。決してうちのダンナを褒めるわけではなく、むしろ貶すわけだけれど、嬉しそうだったりするとそれを後で思い浮かべると涙ぐむのである。どうしてそういう感情が自分に起こるのかがずっと謎で、それを解明してみるために書いてみようと思ったのもある。

もとよりぼくは無口なので冷淡と見られることが多い。サラリーマンの時、仲間からあまりしゃべらないので怖いと言われたこともある。だから感情が高ぶって涙ぐむということは普通起こらない。誰にも見られたくないので必ず一人の時に起こる。見合いだったけれどボーリングでデートしたことがある。彼女が良い点を取ってレーンから振り向いてこちらに来る時、体全体で嬉しがっているのを、こんなに嬉しそうにしている人がいるんだと不思議な目で見てたのを覚えている。それを思い出すといつも涙ぐんでしまうのだ。まったく嘘がないからなのか、天然だからなのだろうか、とにかくぼくにとってはそれは貴重なことだった。