彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

引きこもりの自由

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高校2年の時に10日間ほど不登校で自宅に閉じこもっていた時、日常の時間の流れと自分の世界内の時間の流れのズレを感じた経験から、鬱とか社会的引きこもりの問題には身近に感じている。その時大学病院の精神内科の診察を受け、しばらく精神安定剤を飲んでいたが、勧められていたカウンセリングを受けずに自力でなんとか持ちこたえ、鬱とか社会的引きこもりにはならずに済んだ。みぞおちの辺りに重い鈍痛を感じ、軽度のうつ状態を最終的に受験勉強に集中し大学に合格することで克服することができた。現実には鬱も引きこもりも重度の状態になると日常生活にも支障をきたすそうなのだが、ぼくはそこまで行かなかった。ぼくが経験から何か言えるとしても自分を通して考えられることでしかない。そういうものに価値はないのかもしれない。

ぼくとしては鬱にも社会的引きこもりにもそれ自体に貴重な人生体験としての価値を認める立場を考えてみたいと思っている。鬱や社会的引きこもりになったから、病気を治すという立場ではなく、つまり病気という負の状態と定義するのではなく、ユニークに生きる精神的なバネに転換する素質形成と捉えたいと思っている。ある意味不遜に聞こえるかもしれないが、せっかく鬱や社会的引きこもりになったのに、病気だとして治すことばかりに「矮小化」してしまったらもったいないと思うのだ。実際鬱とか社会的引きこもりになった人に対しては、社会的責任を伴うので何かアドバイスするようなことは言えないのだけれど、自分の経験の範囲内のことは言う権利はあると思う。自分自身の鬱や引きこもりの自由はあると思う。