彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

自分の幸福と時代を生きること

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少しブログへの投稿を休んでいた。自分では書かないが他人のブログはいくつか読んでいた。書くという作業はおしゃべりより面倒くささが伴うので、ブログには書くことがさほど苦痛でない人や自分の立ち位置がしっかりして自分の情報に価値を見出している人が集まることになる。ぼくはといえば書くことで自分が今何を考えているかをはっきりさせるという構え方で、ほとんど書く練習をしているようなものだ。そういえば、最近村上春樹がラジオのディスクジョッキーを始めるらしく、金沢では明後日の月曜日夜7時に聴くことができる。文学の話はほんのちょっとは出るのだろうか?

さて、このブログに書くことはラジオではないが自分で情報発信というステーションを持つと捉えることも可能で、むしろ媒体の機能を意識してマーケティング発想も取り入れるとプロ意識も生まれるのかもしれない。作家やミュージシャンといえども今では何らかのマーケティングをしていることに気づくことがある。ユーミンはもともとマーケティング志向だと思っていたが、平野啓一郎も自分のサイトから「マチネの終わりに」の感想を求めていて、そこに掲載された著名人の感想を本の帯に採用するということをやっていた。

マーケティングとは商人的態度になることだが、つながりを作る技術と思えばやりすぎない程度に取り入れることは良しとしよう。

さて、今ぼくの頭にあるのは「羊と鋼の森」という小説をめぐって、自分の幸せに忠実になることの是非みたいなことを考えてみたいと思ったのだった。「羊と鋼の森」はピアノの調律師の物語だ。こんな幸せな職業が現代にあることに驚いたのだが、まさにニッチをうまく小説の題材に取り上げている。ピアノの音を相手にしていればよく、世の中の雑音は必然的に消される。ピアノを調律する基本となるのが「ラ」の音で、400デシベルぐらいに音叉を使って共振させるのだが、それを哲学科出身のこの作家は、「世界」に漂う潜在的な音ならぬ音と「つなぐ」作業だと表現する。「世界って何だよう」と、主人公の弟に叫ばせているように、ぼくにもこの「世界」という言葉に飛躍を感じた。それにしても随所に成長するには何を学んでいけばいいのかが親切に展開されていて、特に職業選択に直面する学生には最適の小説になっていると思った。ところでぼくには、ピアノ以外の雑音の世界にやはり止まるのが自分の務めだと思ったのである。自分の幸せのためなら自分の見たいものだけを見て、見たくないものは見ないことにして自分の決めた目標に進むことが許されるのか、という問題を考えてみたのだった。そういう人生は確かに幸福かもしれないが、時代(歴史)とともに生きたことにはならないとぼくは思った。

、、、しかしそうはいっても、結局は思い通りの人生など送れるはずもないのだから、小説の中ぐらいは自分の見たいものだけで生きても許されると結論しておこう。