彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

カフカ「判決」を読んで

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昨日決心してやめたことがある。読んだ本から自分の感想や意見を持つのに、評論家やネットに載っている無名の人の「解説」や「感想」を読むことをである。確かにボキャブラリーが足らない時に、ちょっと心に響いた言葉を他人の文章から得ることはいいかもしれない。自分の意見がまだはっきりしない時に、他人の意見と比べるようにして、違いを感じることから自分の意見をはっきりさせていくのもいいと思う。今まではそうしてきてたのである。しかし、自分より他人の方が教養や読書量が多い場合がほとんどなので、往々にして他人の考えに飲み込まれてしまい、わけもなくそれを受け取ってさも自分も同じように考えたかのように錯覚することが多くなるのである。

そもそもぼくの読む本や作家は予め自分が尊敬している人の評価が読む動機になっている。サルトル村上春樹は自分の感覚に響いてくることもあるが、時代を画するほどの影響力があって多くの人がその作品をまず読んでいるという事実を重要視している節がある。ということは、ぼくは最初は他人志向なのかもしれない。もっと言うと自分にそもそも自信がないのかもしれない。

まずぼくは自分が生きているのは、21世紀の今という時代で、生まれたのが1953年で、自我を感じる頃は1968年という特異な時代に息をしていて、会社定年後格差社会が目立つ時代にいる、というふうに自分を取り巻く時代環境がどうしても避けられないと考えている。原子爆弾が現実に落とされたのだから、それ以前と以後は確実に変わっているはずだという前提がある。一つの国を消滅させるほどの手段を持つ時代は、明らかに明治やギリシャ軍国主義時代とは違うのであり、自分が生きたと言えるには他の時代に生きるのとは違う、生き方になっていなければおかしいと考えるからだ。

というふうに大上段にというか、原理的に考えていてはいかにも堅苦しいのはあるけれども、自分に限ってはそうしたいのである。

そこでようやく本題に入りたいのだが、ぼくはカフカの「判決」を読んでさっぱりわからなかったことから、いつものように色々なカフカ論を読んでみた。研究者は「判決」以外にカフカの日記とか手紙を読んで自説を展開している。過去の研究論文にも目を通していることだろう、何しろ研究者なのだから。

わからないことを列記してみる。

1.そもそもゲオルグの幼友達とするペテルブルグに行った友人は実在するのか?オルグの父はそんな友人はいないだろうというかと思えば、彼の代理人をしていると言って一貫しない。そもそも事業から退いて妻も死んだことから、相当耄碌してはいるから記憶違いかもしれない。

2.ゲオルグの婚約者が、そんな友人がいるのなら結婚しなければいいとなぜ言ったのか?別にゲオルグにどんな友人がいても結婚に関係ないのではないのかと思うのだが、、、

3.ゲオルグの父の態度がベッドに寝かせようとしてから一変して、息子をどんどん問い詰め最後には悪魔呼ばわりして、死を宣告するのはなぜか?どうしてそこまで激昂するのか、その異常性の根拠は何なのかがわからない。ゲオルグが自分のことしか考えられない人間だとしても、そういうふうに育てたのは自分だという反省は親としてないのだろうか、、、

4.父の死の宣告(判決)を聞いて、ゲオルグはすぐにまるで待っていたかのように自殺に赴くのはなぜか?こんなにバカ正直になる必要性は理性的に考えればどこにもない。発作的に行う心理メカニズムというものが働いたのか、、、この辺りの記述はものすごく早くて、ためらいは最後の橋の欄干につかまっている時にしか現れない異常さである。

5.カフカはこの小説で結局何が言いたかったのか?確かにネット上の誰かが書いていた通り、ゲオルクの心の根本を父が暴いた、判決を下したという事だと思うが、ゲオルグカフカの分身だとして、自分が父に裁かられたことをなぜ小説として書かなければならなかったのか、、、幼友達はどういう存在としてあるのか(カフカ研究では幼友達はゲオルグの分身と解釈されている)

 以上の疑問は、率直に今度の公民館合同読書会で参加者に訊いてみようと思う。