彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

観客席にいたオバサンの話

前回のブログではカフカ「判決」で読んで疑問に思った箇所にまだ自分の答えを用意していなかった。そのまま読書会に臨んでいたらおそらく混乱に巻き込まれるだけだっただろう。予想されるのはカフカは難しいからめんどくさくなって投げ出してしまうことだ。カフカの魅力に引き込まれる人とそうではない人に分かれるような気がする。前者は好奇心の強い人で、後者はあまり好奇心が強くなく常識的な範囲を超えるのを恐れる人だ。何か変だと感じたら、それは何だろうと近づいていくタイプと、変なものには近づかないようにして自分の趣味にあったお気に入り世界に引き返すタイプがいる。ぼくは前者なので後者のタイプは正直いうとよくわからない。そもそも小説を読むというのは好奇心からではないのか、という気がするが、この街の読書会に集まるご高齢の方々には自分の心情に優しく付き添ってくれる同伴者の小説なるものが必要なのかもしれない。

そういえば先日、賀来 千香子主演の「幸せの雨傘」というコメディタッチの舞台を観ることがあって、ぼくの座席の後ろでオバサンが「なんて面白いんでしょう」と声に出していたのが耳に入ってヘドが出そうになった。マナーがどうこうというのではない、舞台と観客の距離が短いというのでもない、それ以前のことだ。黙って感じていればいいものを声に出して他人に認めてもらいたいかのように呟くのは、そもそも他人との共有感がないのではないかと思われた。せっかくみんな黙って心で通じ合っているのに、ぶち壊しなのである。

脱線してしまったが、我が読書会にはこんなオバサンはさすがにいないが、難しいから私にはわかりませんでした、という人はいそうな気がする。ぼくもそう言われてもそうですかと言うしかなくて、ヘドが出ることはもちろんないのだけれども、あなたにとって文学ってなんなんですかと訊いてみたい気がする。芥川賞だって作家だって出版社だって、読者が増えて本が売れなければだんだん衰退していくのである。読者がわかりやすい薄っぺらな世界しか読まなくなったらだんだん衰退していくのである。ますます現実が生きにくく感じられるようになっていって、小説にも逃げ場が見出せなくなって自殺者が増えていくのでなければいいのではあるが、、、

あのオバサンだって寂しいのかもしれない。ただ自殺するようなタイプではないのは確かではあるが。