彷徨える初期高齢者

苦しみもがいて、62歳からの生き方を探すことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

私という媒体を深く厳密に掘っていくこと

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ブログに書くとき意識的に「ぼく」という一人称を使っている。「私」にすると改まった感じになるし、読者がいるとして読んでくれる人との距離を縮めて親密な、カジュアルな文体にしたいと思っている。昨日のブログで考えるという行為を特別にこだわってみようとした時、哲学の世界にも自分を広げていきたいと思って、哲学する時の主体では「ぼく」より「私」の方がしっくりすると考えたのだった。でも「ぼく」のまま哲学の文章を書くということができないわけではないと考え直した。ただし、哲学の対象は自分の客観的存在であることには違いないので、それを「私」とするとして「ぼく」と「私」を使い分けることをやってみたい。

要するにぼくは自分を対象に哲学することを選んだのだ。それは自分をまだ小説に書けないから、書けるようになるための準備作業としての意味があるかもしれない。自分を客観視できない状態では、他者も客観視できず描写ができないようなのであるが、単に小説を書く才能がないだけかもしれない。でも何となく哲学の方法の方が自分の世界を掘り探っていけそうな予感がする。

「私」は現実に生まれて65歳になっているが、対象としての私は両親から祖父母へと歴史的に遡行できるし、社会環境では時代性を帯びることには避けようがない。また性格や主観性などでは公共教育ばかりではなく、読んだ本や友人などの影響を形成要因として考慮されなければならない。どのような愛情を受けてきたとか、どのような行動を取ってきたかとか、どんな人に好意を持つのかとかいったことが客観的に分析されなければならない。自分を対象にした評論というものになるのかもしれない。私という媒体を深く厳密に掘っていくことというのは、自叙伝よりは自省録に近く、考えることに主軸を置いた評論になると思う。

<注>写真と掲載の文章とは関係がありません。