彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

私という存在のリアル

自分にとって私という存在は自明のことのように思えるのに、私は他とどう違うのかと考えてみると性格のこととか年齢のこととか住んでいる街とかが違うなどと、どんどん拡散していくことに気づく。私は内向的な性格で、65歳になって、石川県に住んでいると言ってみてもさっぱり自分のことという感じがしない。そんな人間は石川県が100万人いるから65歳の男は6000人くらいで、そのうちぼくみたいな性格な人は500人くらいだろうか、、、あまりにもざっくりしすぎている。ただ内向的性格で区切ると年齢や地域に限らないでも自分という感じが多少はする。私という存在性は多分心理的なものだからだろう、、、

そもそも考えるということは日本語でやっていることで、日本語が自明なのは日本国内に住んでいるからであって、当然日本語の規制や文化や、あるいは日本の法律に縛られて生きている。このように誰にも頼らずに自由に(間違って考えているかもしれないと幾分承知しながら)考えてきて、私とは何かと考える時、すでに私は実質的に他人になっている気がする。ぼくというリアルさを持って私をどこまでも無限に引き受けることができない。

いや、本当はできるのかもしれない。自分の能力である、理性を信じて原理を信じて思考力を鍛えていけば宇宙に到達できるのかもしれない。そこまでリアルさを感じられないのは、ほとんど無知状態に近いからだけなのかもしれない、、、疲れてきてしまったので、単なるつぶやきで今日は終わる。