彷徨える初期高齢者

こころの中の私という同一性の海の中で、少年から大人に移りゆくまでの自己幻想にふと至ることがあって、ああ、あの感じはなんだっけとその感情に寄り添いながら、激しく回顧したい欲望にとらわれる。 喪失が長く続いた後の面影としてふと現れる、こころの不思議さに探求の理性を発動したくなる。 哲学か文学かは問わず、私という現象に没頭したい。

自分を取りもどすとは

これまで「私」にこだわって考えてきたが、背景にぼくの過去のどうしようもない経験がある。それは多くの一般的な社会人の人生を取らないとしている今のぼくの生き方に関係している。ぼくはこれまでの延長線上に「老後」を送るような、他者の生き方はしないと決めている。サラリーマンだった38年間は、他者の生き方をなぞって生きてきた。生きてきたとも言えないかもしれない、押し流されるように周りから外れないように圧力を感じながらずっときたのだ。経済的安定と引き換えに、自分を捨てて生きてきたのだ。自分を殺してきたから、本当の自分の感情が分からなかった、というよりすべての人間関係が希薄でよそよそしかった。父とは心から通じあうということがなかった。母とは距離をとって他人行儀だった。祖父の期待を受け止める感受性がなかった。兄弟とサラリーマンになってからまともな話をした記憶がない、、、

ここまで書き進めてきて、当初書こうとしていたことと真逆な方向に進みそうな予感にふととらわれた。ぼくは自分をサラリーマン時に失ってきたと書いてきたが、ずっと自分のことばかりを考えてきたのではないか、いやサラリーマン時ばかりでなく、ずっと以前から自分のことばかり考えてきたのではないかと自省の念が湧いてきたのだ。どうしてだろう?

立ち止まって読み直してみると、自分の感情が家族との関係でよそよそしかったのは、サラリーマン時に自分を殺してきたこととあまり関係がないのではないかとふと気づいたからだと思われる。私の家族の中での現象は、別の問題だったという結論で今日は終わることにしよう。