彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

魂について

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魂は生と死を結んでそのどこかの領域で存在するものである、と語り始めてみよう。なぜぼくが魂が何かについて知りたいかというと、現代は魂がない時代であると、ある日本の革命家が言ったからだ。ぼくはもちろん革命家ではないが、革命家には時代を切り拓く力と戦略がある(だから時代を知っている)と考えるからだ。でもそう考えるからといって、どれだけ実際的に革命を考えているかというと、村上春樹が「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」の終わり近くで、主人公のぼくのかつてのクラスメイトだった女の子が革命活動家と結婚していたことを思い出して、自分の死と彼女のおそらく直面するだろう死と比較するところがあって、それぐらいの興味で革命を考えていることをお断りしておく。

そしてまたどうして村上春樹を持ち出すかというと、これを書き出すまで池田晶子の「魂とは何か」を読みだして彼女の考える魂の捉え方が言葉の説明に過ぎなくて、眠気を抑えようがなくなったという事情がある。ぼくには革命と同じくらいのエネルギーを持った、心の形式が魂でなくては眠くなってしまうのだ。沸騰し、なおかつ蓄えられて静かなる心の形式で、個を超えて伝播するものというところから考えたい。

もう少しぼくが魂とは何かを知りたいと思った経緯について振り返ってみよう。ここしばらくブログでぼくは私とはどういう存在かについて考えてきたが、私には必ず思考能力があり、生きると同時に現象することを確認してきた。そして私がぼくであるためには、宇宙の中でぼくに似た気質で限定される何かがあるはずだと推論したのだった。傾向と言い換えてもいい。ぼくという人間が持つ気質や傾向と似た人間と世界の中で出会うとしたら、それは魂という心の形式(あるいは「場で」)はないだろうか、、、というふうに考えたような気がする。ここまで考えてきて疲れてきてしまったので、今日はここで終わる。(それにしても考えると疲れてしまうのは何故だろう)