彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

島津有理子アナの目標

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「NHK島津有理子アナが退局、医師目指す意向」というニュースが目に止まった。44歳で医師を目指して大学で勉強するという。遅すぎることはないのだ。きっと彼女には自分が死を迎える時、現役の医師でいたいと考えたのだろう。彼女がキャスターを務める、100分de名著は気になる作家の時何回か見ていて、好感を持っていたのだった。番組からの学びも受けて退局後の進路を決めていたのだろうと思う。

さてぼくの場合はどうなのか?島津有理子アナのように明確な形の目標はない。どうしても未だに作れないでいる。このまま目標のないままに人生が終わりそうに感じられる。みんなそうだよと言われても自分は納得できない。単に好きなように生きればいい、とは心から思えないのだ。将来の明確な目標がなければ、現在は曖昧なまま永遠に中途半端に過ぎていく。これは変えようのない真実である。

だがしかし、これと真逆の生き方もある。今この時を充実して生きる生き方である。今がすでに到達点であるように生きるのだ。すでに到達しているということは、後は維持するだけということになるし、現状維持は得てして後退を意味する。今をずっと最高の状態で維持することは不可能であろう。むしろ充実とは(今以上)何もないことではないのだろうか?何もないことは無ではないはずだ。無は死でしかないからだ。いよいよ哲学的になってくるが、ここで思い出すのは、ハイデガーの死を先駆けて生きる生き方だ。これは村上春樹の死を生と同列に置いて生きることに通じる。島津有理子アナの目標からここまで考えてきたが、この展開に背理はないのだろうか?今日はここまでしか考えられない。