彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

福永武彦「ゴーギャンの世界」を読んで

f:id:hotepoque:20181024123700j:plain

次第に主題が形づくられてきている感触がある。「ゴーギャンの世界」を読み始めて感じた違和感を育ててみる方向の中で生まれつつある主題だ。福永武彦ゴーギャンの精神を捉えようとしているが、ゴーギャンその人の中に入っていこうとはしていない。おそらく作家としての自己を画家とは違う場所に置こうとしているからだ。ぼくの場合はゴーギャンとなって彼のように内部と外部を味わいたいのだ。

昨日「ゴーギャンの世界」を読んでいて、大鴉というエドガー・アラン・ポーの詩をマラルメの翻訳で読んで霊感を受け、それを人生の謎のようなものとしてタヒチの自然の中に求めようとした、という福永の解釈を知った。ロマン派の芸術家というのは人生という世界の中で、原初的な美というか偉大さを再現しようとする。すでに資本主義がルネサンス以来のヨーロッパ文化を破壊して、無味乾燥のブルジョア的世間の中で窒息しかけていた株式仲買人のゴーギャンをとらえたのは、原始的な豊饒なる人生美の世界だったと思われる。それは家族や安定した生活を捨てても惜しくないとまで思わせるものだった。

同じように原始的な豊饒の美の世界を神秘の静的な映像として描いたアンリ・ルソーという画家がいる。彼とゴーギャンは交流があったのだろうか?それを調べて両者の絵と生き方を比較してみたいという研究テーマも浮かぶが、ぼくは研究者ではない。芸術家がその時代で直感した反資本主義的な生き方と美意識を吟味してみたいのだ。時代はロマンからランボーを通過してシュールレアリズムに向かったとかつて学習したことを思い出すが、もっと詳しく時代の中に入ってみなくては分からない。現代の速すぎる情報リテラシーでは味わえない感度をぼくは意識的にとっているが、ロマン派から生き方のモデルを取り出してみたいという欲求を覚える。

このようにまず美の世界から人生や社会を逆照射する方法というものがあるのではないか。つまり或る理想から現実を見るというものになるが、それを空虚にならずリアルに(生死を賭ける芸術家のように)やる方法というものを作り出してみたいと思う。