彷徨える初期高齢者

62歳からの生き方を探し、もがいて苦しむことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

欠けたものからではなく、在るものから出発する

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欠けたものからではなく、在るものから出発する____それは否定からではなく、肯定から始める、と言い換えることもできる。村上春樹の文学は「気持ちよくて何が悪い?」から始めている。日本の近代文学あるいは村上春樹以前の文学のほとんどが否定から始まったのに対して、彼は肯定から始めたと加藤典洋は書いていた。ぼくも埴谷雄高大江健三郎から自然に否定から始めていて、それがほとんど骨の髄まで染み込んでいる。だからまず自分の中に「欠けたもの」を見てしまうのだ。また現代の高度資本主義社会の競争環境では、他者との比較で能力が分析され、より強者だけが利益を得る仕組みが行き渡っている。だからささやかな在る自分の能力も相対的に劣る、つまり「欠けたもの」に意識がいってしまうのだ。

では、競争環境から抜け出して唯我独尊の世界を作ってそこに住んだらどうだろう。そんなことは果たして可能なのだろうか。自分が主人公の小説を書けばいいのだ、少なくとも擬似的には可能になる。村上春樹はそれで小説家になった、というのがぼくの説だがどうだろうか?それはさておいて、今は自分自身が「欠けたものからではなく、在るものから出発できるか」が問題なのだ。

ささやかながら自分の中で肯定できるものはなんだろうか。それは考える力、だと思える。小説は書けないが、考えたことは書くことができる。それを在るものにして始められないだろうか。いや、始める決定は簡単だが、いかにして始めるかが課題であるように思える。つまり方法こそが自分になければならない。

ぼくは相当遅い時期に恋愛を経験した。その時、正直に自分の心に聞いてみることを学んだ。それは頭で考えるのとは少し違っていた。やはり心の底の方で湧いてくる小さな声を聞くという感じがするのだ。でもそれは考えているとしか言いようがない。考えているのではないとしたら思い出しているといえるかもしれないが、それでもそれは考えている範疇に入ると思う。自分が感じたり嬉しかったり悲しかったりするのはなぜだろうと、意味を考えたりしている。本物か偽りか、本心か戯れか、言葉の裏に何かあるのか言葉のままなのか、それはどちらなのか静かに自分に聞いてみるのだ。自問自答という状態がある。恋愛は愛の自問自答状態と言えるかもしれない。それは考える方法の一形態だ。そのほかはまた考えよう。