彷徨える初期高齢者

苦しみもがいて、62歳からの生き方を探すことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

定年退職者の手記(総集編)

定年後をどう生きるかみたいな本がよく売れていて自分もその渦中にいるのだから、定年後の居場所がないことを認めてもおかしくはない。でもそれは敗北感がともなう。スタバは第三のプレイスがコンセプトで、自宅と会社または学校とスタバの三つの場が必要ですよと言っているが、ぼくには会社がなくなったのでそれに代わる場所がほしいと会社をやめてからずっと思っていた。ぼくはスタバには馴染めなかったので二つの場所がいることになるが、一つは図書館でこれは年金生活者には一番利用しやすい公共施設になっている。ぼくは主に泉野図書館と白山市図書館を利用するが、玉川図書館や海みらい図書館にもたまに行く。自宅と図書館ともう一つのサードプレイスがなかなか見つからない。FaceBookやブログはどうしても場所にはなりにくい。何といっても仮想空間なので。

ぼくの定年は2014年の誕生日でその年の228日で会社を辞め自ら定年延長という道を断ち、独立しようと考えていた。定年の2年前から独立するための準備をいろいろ考え、神田昌典の教材を買って勉強していた。しかしどう考えても自分にやってみようとする、ニッチな市場は見つからなかった。

ぼくはもともと器用な方ではない。のろまで若い奴らのようなすばっしこさがない、おまけに図太くなく変にプライドが高いので、負けることが分かっていることに自然とやる気がおきない。そうこうしてるうちに失業保険の給付が切れて晴れて年金生活者になった。といっても生活保護を受けるぐらいのお金しかもらえない。もし妻がいなかったら、妻の給料がなかったら文化的な生活はできないだろう。

文化的な生活とは雨風をしのげる家があり、電気ガス水道等のインフラ料金を払うことができ、税金や保険料を収めることができ、TVニュースや新聞、インターネットからの情報を読み解くリテラシーを持つこと、趣味に時間をさけることといったところだろうか。

ぼくが65年間生きてきてそれを振り返る時、一切の感情から解き離れて一個の存在現象として見ることに興味がわく。親の庇護のもとに幼年時代を送り、戦後教育の中の学校教育で育ち、友達社会に馴染み異性との付き合いに馴染み、自我という内面に生き始める。大学まで自分本位に生きて、大きな衝突を避けながら社会に送り出されることになる。労働市場に大学卒業の看板で中流以下の給料で買われる。地方の民間企業で出世することなく38年間のサラリーマン生活を送る。途中31歳で社長の仲人で結婚する。子供ができず夫婦二人の家庭を34年間継続中である。夫婦共通の趣味にテニスを35年間続けている。会社定年延長は1年で辞め、妻とともに夫婦本位の生活に復帰する。

ここまで綴ってきて現象として様々な私以外の要素が含まれていることに気づく。私は現象として大きくは、両親、兄弟、学校、友達(同性、異性)、会社、社長、同僚、顧客、妻、趣味の友達等の関係項と結びついている。市場の中での経済的存在性や商品生産性としての技術という価値に関わる現象もある。両親、兄弟、妻、友人の中でそれぞれ愛情に関わる現象もある。

経済的に極端な困難に陥ることなくただ平凡に過ごせたのは、妻の采配に負うところが大きい。妻と破綻なく家庭を維持できたのもお互いの相性がいい組み合わせを作ったと感じている。1984年に結婚しているので今年で34年目になるが、これだけ一緒にいてもお互いは表面的にしか理解し合えていない。性格なら分かる。恋愛が苦手らしい感じはする。根は優しいし正直で天然のままのところは好ましく思っている。ぼくと妻は見合い結婚なので、恋人同士の期間に深く相手を求めるということがなかった。ぼくは自分を信じて妻の善良さに適う夫になろうと決断したのだ。見合いした頃の自分というのは精神的にどん底にあった。それを救ってくれたのが妻であった。妻は今、62歳だ。ぼくのことをどう思っているだろうか?ぼく達夫婦は子供ができなかった。だから、お父さんと呼ばれたことがなく、ぼくもおかあさん、あるいはママと妻を呼んだことがない。一般的には友達夫婦というカテゴリーに入るのだろうか?

妻はどこにいるかと問うて、ぼくの横にいるらしいことに気づいた。前にはいないのだ。だから妻のことは表面的にしか分からないのだという気がする。時にはぼくのことを自分のことように話したりする、友人たちの前や近所の井戸端会議の場で。そういう時の妻のことを思い浮かべるとぼくはどういうわけか、涙ぐんでしまう。決してうちのダンナを褒めるわけではなく、むしろ貶すわけだけれど、嬉しそうだったりするとそれを後で思い浮かべると涙ぐむのである。どうしてそういう感情が自分に起こるのかがずっと謎で、それを解明してみるために書いてみようと思ったのもある。

もとよりぼくは無口なので冷淡と見られることが多い。サラリーマンの時、仲間からあまりしゃべらないので怖いと言われたこともある。だから感情が高ぶって涙ぐむということは普通起こらない。誰にも見られたくないので必ず一人の時に起こる。見合いだったけれどボーリングでデートしたことがある。彼女が良い点を取ってレーンから振り向いてこちらに来る時、体全体で嬉しがっているのを、こんなに嬉しそうにしている人がいるんだと不思議な目で見てたのを覚えている。それを思い出すといつも涙ぐんでしまうのだ。まったく嘘がないからなのか、天然だからなのだろうか、とにかくぼくにとってはそれは貴重なことだった。

現象として記述するには、まだまだ多くを抽象化する必要を感じるが、敬愛する思考モデルとしての師から学んでいきたいと思う。

これまで「私」にこだわって考えてきたが、背景にぼくの過去のどうしようもない経験がある。それは多くの一般的な社会人の人生を取らないとしている今のぼくの生き方に関係している。ぼくはこれまでの延長線上に「老後」を送るような、他者の生き方はしないと決めている。サラリーマンだった38年間は、他者の生き方をなぞって生きてきた。生きてきたとも言えないかもしれない、押し流されるように周りから外れないように圧力を感じながらずっときたのだ。経済的安定と引き換えに、自分を捨てて生きてきたのだ。自分を殺してきたから、本当の自分の感情が分からなかった、というよりすべての人間関係が希薄でよそよそしかった。父とは心から通じあうということがなかった。母とは距離をとって他人行儀だった。祖父の期待を受け止める感受性がなかった。兄弟とサラリーマンになってからまともな話をした記憶がない、、、

ここまで書き進めてきて、当初書こうとしていたことと真逆な方向に進みそうな予感にふととらわれた。ぼくは自分をサラリーマン時に失ってきたと書いてきたが、ずっと自分のことばかりを考えてきたのではないか、いやサラリーマン時ばかりでなく、ずっと以前から自分のことばかり考えてきたのではないかと自省の念が湧いてきたのだ。どうしてだろう?

立ち止まって読み直してみると、自分の感情が家族との関係でよそよそしかったのは、サラリーマン時に自分を殺してきたこととあまり関係がないのではないかとふと気づいたからだと思われる。私の家族の中での現象は、別の問題だったということに気づいた。

 

40年近く居た街のはずれの工業団地にある「収容所」から出て帰ってきてみると、街はそのままあって何が変わっているかすぐには気づかなかった。風景はそんなに違ってない気がしたが、しばらくすると確かにバージョンアップされていることが分かる。ただ街は綺麗になった分、空っぽで情念というものがない。ニューヨークがサンフランシスコになったような感じだ。身なりはそれなりにシンプルにまとめられていて、一人一人同じように収まって見える。高齢者ばかり目につくようになったのは、これまで出会うことのない時間帯にいたからだ。街に労働者風の男の姿が見えなくなった。男の学生が見当たらず、どこにも女性ばかりとなっていた。それは女のような男が増えてそんな印象を持ったのかもしれなかった。

映画館や書店が地方都市では郊外に移っているので、ファッションや雑貨の店しか残らず女の子ばかりが歩いていることになるのかと思われた。最近の金沢は街に外国人の方が多いような日もあるくらいだ。実際は目立つから多く感じるのかもしれないが。40年前には金沢にもジャズ喫茶が3軒あったが、今は一軒残っているだけだ。この前その店に友人と入って昔話をしていて、店のマスターと目があった。ぼくが学生のころ、マスターは大学紛争で緊張関係の中に置かれていたころの状況を知っているらしいと思わせた。一瞬完全にからだの動きが止まった。その店の入り口のボードには岡林信康のライブを知らせるチラシが貼ってあり、友人はその日をメモしていた。

ぼくはサラリーマン人生を38年間送ったのだが、よく我慢し通したものだという以外に感慨がない。よかったのは厚生年金が少なくてももらえることだ。妻の年金と合わせれば普通の生活がよっぽどの事故がない限り送れそうだという安心感は、今のぼくには精神的な財産となる。サラリーマンは社畜であり、個人の能力というものは必要がない。社畜の能力だけがある。感性が敏感だと屈辱に身悶えすることになるから、できるだけ鈍感になろうとする。給料の差や人事の不公平感に感情がとらわれたりすること自体が許せないので、鈍感になる方が手っ取り早い。会社を辞める方が賢明だったかもしれないが、器用な方ではなかったので面倒くさくなって流される方を結果的に選んでしまった。そしてますます社畜になっていくわけだが、強制収容所よりはマシだと思って耐えてきたのだ。マシというのはわずかながら給料がもらえ、社会保険や定年までいれば退職金がもらえることだ。

だからできるだけ無個性で働くのと、少々の奴隷的な過酷な環境にも耐えられる肉体と精神があればぼくのように定年まで会社に居られると思う。会社を甘く見てはいけない。毎日が戦いというほどの覚悟がいると思う。要は表面的な現象とか言葉に騙されてはいけないということだ。坂口安吾も書いていたが、一番悲惨なことは落伍者になって貧乏になることではなく、それによって自信を失うことだ。くたばらなければいいのだ。65歳になってようやく過酷な状態から解放されて息をできるようになった、というくらいに今を考えている。

現在。ここに居て妻と二人で暮らしている。近くに母が一人で住んでいる。外から何かを指示されて動くことからは解放されている。よく若い頃を思い出して時間を過ごすことが多くなっている。若い頃の気持ちにしばらく浸っていると、無意識の語り得ぬ非存在の、圧倒的広がりがあったことに気づく。その頃あった未来というものが、今はないことに気づく。空きスペースが随分とあった。それが消えている。齢をとるというのはそういうことなのか?無限と思える未来が今は無くなっている。おお、本当にそうなのか?例えばジャンクリストフの生きた大河のような人生はもう、ぼくには望めないことなのだろうか?おお、それを取り戻したい!

 

このように書いてくるとぼくと妻の生活に何の問題もなく、年金生活者の自分もある人たちからは仕事もしないで何を贅沢言っているのだと叱られるかもしれない。ところが人間は衣食住が最低限保障されても精神面があるから、精神的安定性も保障される必要がどうしてもある。要は人とのつながり感である。共同体の一員として認められているという安心感を失ってしまうと、鬱になってしまうのだ。ぼくは高校2年の時に軽度の鬱になって10日間ほど登校拒否していた経験があるので、その辺のことはよく分かる。

二三日前にFaceBookから離脱した。自分を変えるために。

中学生の頃の自分を思い出していた。自我が芽生える頃がほとんど中学の頃と重なるように思えるのは、多分中学に入って環境が変わり、小学校の時とは全く違うタイプの同級生との接触が自分に向き合うきっかけを作るからだではないだろうか。小学校の同級生は同じような仲間だったのに、中学では日常的に違いに気づかされたり、場合によっては圧倒されたりする。ぼくの時代の中学にはいわゆるガキ大将がいた。ケンカに強く大柄であったり、体格は普通でも骨っぽくガッチリしていた。ぼくは小学校では女の子と自然に溶け合って遊ぶような優しい男子だったが、どういうわけか彼らのような不良男子に親近感を覚えた。幾分虚勢も張っていて今から思うと、強いものにすり寄っていたのかもしれない。「デミアン」に出てくる、年上の不良に盗みを強要させられるようなことまでは流石になかったが、同級生には家がヤクザ関係者だったり、ケンカがあると呼ばれて出て行くような舎弟まがいの少年もいた。いわゆる施設から来た野生の少年もいて、ぼくはどうしてなのかわからないが、その施設に遊びに行ったような記憶がある。強い者に取り入ろうとするばかりではなく、ひどく変わった所をもつ者に魅かれる性格がぼくにあったものと思われる。でもそういう少し危険な同級生や同窓生に近づくことはあっても友達にはならなかった。彼らの方もぼくのような「堅気」の少年には違和感があったのだろう。ただ親が学校の先生をしている不良の一人とは仲が良くなった。ケンカに出かけてはいくが、ウケ狙いをするオチャメなところもあってそれがどことなく安心感を与えたのだろう。彼とはその後ぼくが結婚するまでは付き合いが細く続いていた。

自分の海外への憧れの源が中学の時のアメリカンポップスへの沈潜にあることを思い、その頃のヒット曲をYouTubeで聴いていた。PPMの曲が今のぼくの心にも沁み渡った。あの頃は世界がとても小さかった。ほとんどどこへ行くあてもないから部屋に閉じこもっていた。特に冬の間はスキーにも行かなかったから、音楽を身いっぱい受け止めていた。自分の部屋は屋根裏のように天井が低く暗かったが、狭いということはなかった。一人で心地よく自分の世界に閉じこもっていたので、世間の動きから遠ざかっていただろうと思う。その頃、世界はベトナム戦争パリ五月革命、中国文化大革命など激動のはずだったのに、地方の田舎町には何の影響も及ぼさなかった。それらの外の動きを受信するにはぼくは幼く、情報を理解する知識が全くなかった。

中学3年の夏休み、地方都市にいて遊ぶことを知らずに職人の家庭で育ったぼくは、不良仲間の誘いにはのらず、ストイックに勉強する習慣の中で過ごすしかなかった。親は日曜もなく働きづめだったので、結果的な放任主義に任せられた。たしか主要5教科の夏休み中の分厚い受験強化参考書を1冊買って、毎日勉強していたと思う。その甲斐あってかその後の成績はどんどん上がって、高校志望校は上方修正された。そしてクラス上位3位以内が許される志望校を受験して合格した。

合格するとストイックに勉強する習慣を自ら捨てて、世界文学全集を読みふけった。自分の定年後の生活をイメージする時にまず出てくるのが「読書」である。何故「読書」がでてきたのかというのは、定年にならないと本が思いっきり読めないという思いがあるからだ。いわゆる読書三昧が許されるのは会社を離れてでないと無理だという実感があった。逆にいうと読書三昧という環境とか、その精神的自由感を味わいたいために定年を待ち望んできたと言ってもいいくらいだ。自分の人生の中でこの「読書三昧」と「精神的自由感」を一時期満喫していたことがある。私の高校時代である。

私は受験勉強を嫌って本ばかり読んでいた。私にとってその時が乱読の時期で、よく作家が年少の頃の乱読体験を披瀝しているが、私は作家程の読書量はなく、選択した職業も書くこととは特別関係ないということからも推測できるように、ごく普通の乱読コースである。つまり、世界文学全集を片っ端から読んだのである。その全集というのは比較的長篇の小説が多く、私の読書傾向として長篇好みがあるのはその時の読書経験による。

ゲーテの「若きウェルテルの悩み」「ヴィルヘルム・マイスターの修業時代」から始まり、ヘルマンヘッセの「車輪の下」「ナル チスとゴルトムント」、スタンダールの「赤と黒」、トルストイの「復活」、ドストエフスキーの「罪と罰」「未成年」「白痴」「悪霊」、ロマンロランの 「ジャンクリストフ」「魅せられたる魂」、ジャン・ジャック・ルソーの「孤独な散歩者の夢想」、カミユの「異邦人」「ペスト」、サマセットモームの「月と 六ペンス」と順番はこのとおりか記憶が定かではないが、約一年半程の期間はこの乱読の小説とともに私の高校生活があったのである。

今、「小説とともに私の高校生活があった」と書いたが、これは単にレトリック(修辞)として書いたのではない。実際そのような生活であった気が今この歳になって振り返ってみるとするから、事実としてそうであったと書いたのである。つまり、必要以上に現実を深刻に考えたり、恋愛至上主義になって女性崇拝的な片思いの結果、失愛に苦しんだり、逆に優柔不断でつきあってくれた女の子を苦しめてしまったり、天真爛漫の時期があるかとおもうと自責の念で極度に落ち込んだりと、決して平和な心境にはなれずに過ごした記憶が今でも断片的に思いおこされる。

私は幾分ラスコールニコフに似ていたし、ロッテのような女性に憧れ、ムルソー気取りで夏休みを過ごし、ジュリア ン・ソレルのような自信家になってラブレターを書いて赤恥をかき、ジャン・クリストフとともに長く暗い冬を情熱的に過ごし、カチューシャのようなちょっと 斜視の女性に恋して一度だけデートしてもらったり、トルストイにかぶれて白樺派のようにヒューマニズムが最大の価値だと回覧日誌に書き込んで担任の白井先生にからかわれたり、「悪霊」に出てくる政治活動家の議論のように学生運動を自分の内面に引き込んでしまって軽いノイローゼになり10日ほど不登校を経験したり、何かにずっと取り付かれていたかのように高校生時代を過ごしたのだった。

今思うと何故これ程までに読んだ小説に影響されて実生活が振り回せれてしまったのか、不思議に思える。実生活が受験勉強という現実離れした学生身分だったからというのはあるだろうが、それでもそのころの私は無知ゆえに大胆な行動がよくとれたと感心するくらいである。安定した生活というものにまだ出会っていなかったし、多分心は荒れていたと思う。その時ぼくは生まれたまま自然に成長してきた純朴な自我というものを失った。少年の殻が壊れて、生まれた街を出て、見知らぬ世界にどんどん引き込まれていった。その当時の世界文学全集の世界とは、ドイツ、イタリア、フランス、イギリス、ロシアのことだった。そこにはアジアやアメリカやアフリカはなかった。

高校2年の後期になってとうとう乱読がたたって授業についていけなくなった。その頃にはドストエフスキーの「悪霊」を読むような、小さな「政治」青年になってデモに参加することもあった。ただそれは何かに憑かれたようにやっていたように思える。決して確信があって行動してたわけではない。心は虚ろで満たされるものはなかった。

10日ほど登校拒否をしていた。最初の危機が訪れていた。その当時は危機の自覚はなく、ただ現実から逃れようとばかりしていた。とにかく何も考えずに休みたかった。担任の西能先生には同情されて心配をかけてしまった。たしかどこかの空いた教室で二人で話し合ったように思う。先生はぼくを一人の人間として扱ってくれた。どこかで先輩というか同志というかそんな感じがあり、優しい目ではあったが力のこもった眼差しだった。君が考えたくはないのならぼくからは何も言うことはない、とおっしゃった。本当はぼくと議論したかったのかもしれないと後年振り返ることがあった。

自分がどういう風に生きてきたのか、何故そのようにしか生きられなかったのか、今原因をたどる想起に身を委ねていて、思い当たることを発見した。ああ、そうだったのかと今にして初めて合点がいくのは、過去のことではあっても前進なのではあるまいか?

たしか高校の1年の時だから19694月から19703月までになるが、現代国語の教師から読書の指導を受けていた。(ぼくの方から相談に行っていた)ぼくは今までこの先生には好感をずっと抱き続けていた。何しろ今でも思い出すくらいだから、この先生からの影響をぼくの人生でプラスの方にずっと入れてきていた。ところが、時代を改めて振り返るとこの時期高校でも学生運動が起こっていて、金沢でも反戦高連と反戦高協という組織があった。この先生は学生課のような部署にいて、生徒を政治から遮断する役割を果たしていたように思えるのだった。ぼくに白樺派の文学やロマンロランを読むように勧めていた意味が、そのように受け止められることに今気づいたというわけだ。

現代国語の授業は熱がこもっており、どちらかというと熱血先生だったと思う。ぼくは先生の朴訥な語り口が好きだった。あなたは、ベトナム戦争に加担する時の政権に対するラディカルな批判から、我が高校生徒の耳目をふさぐことを親ごころから担っていたのですね、、、ぼくは約一年間は素直に従っていたが、その後真逆の方向に進むことになるのは、あまりにもぼくを時代錯誤の状態に置こうとしたからじゃないだろうか?

もう稼がなくてもなんとか生きていける定年退職者の身分になって、働いて生活していく人生が終わってみると人生が終わりに向かうには早すぎて、身軽になっている現在が漂っている場を作っている感じがする。定年後の生活イメージが定着しないのである。一つの人生が確実に終わったのにまだ先が見通せないほど長い気がする。本当に思い通りの生き方ができるはずなのに、始められないでいる。65年間の人生は特別の試練を幸いにももたらさなかった。

父は83歳まで生きたから、ちょっとした事故死だったけれどそれほど不幸ではなかった。戦争で悲惨な体験をしたわけでもなさそうだった。ぼくは戦争を体験せずに済んだ世代に属している。餓死寸前になったり、肉体の限界まで酷使する状況に置かれたり、大量に血を見たり肉片が散らばったりしているのを見ることはなかった。

その代わりというのも変だが、平穏すぎて空虚を感じる、締まりのない日常というものは嫌という程経験している。何事も起こらない毎日が続き、何事もやろうという気にならない時間が山ほどあった。ぼくの周りには刺激的な人物があまりいなかった。学生運動がほとんどぼくの人生で唯一といっていいほどの刺激だった。

ちょうど大学に入って最初の夏が訪れるころ、野鳥公園でスケッチしていると声をかけられて、タイミングよくガールフレンドが出来かけたのに、禁欲的に活動家と思われていた先輩に近づいていく決心をしたのだった。(ぼくは何事も同時進行するやり方は不器用で出来なかった)何となく空虚に耐えられなくて、世界との熱い関係に入っていきたい衝動に駆られていたような気がする。三島由紀夫の自決があったのが高校2年の時で、連合赤軍浅間山荘事件のあったのが高校3年で、大学一年の時に岡本公三のテルアビブ乱射事件があって、物騒な雰囲気が時代の空気を染めていた。元全共闘だった人がこの時期に運動から離れていったと述懐しているのを読んだことがあるが、ぼくの場合、今から振り返ると、訳のわからない暴力に対する幻想を掻き立てられて離れるのではなく逆に近づこうとした。少なくとも今日のISのような暴力とは異なる何かが感じられていた。(現在起こっている暴力には残忍性しか感じられない)世界には自分が全く想像もできないことが起こっている、今まで自分は何も知らずに来た、もっと今起こっていることを知り、理解できるように勉強していこう、というふうに自分の衝撃を受け止めたように思う。

三島由紀夫連合赤軍のことを調べようと思ったわけではない。何が主張されていたかとか、それまでの経緯のようなことには関心がなかった。ただ通常の強盗事件とか殺人事件とは違う動機があり、それは彼らが自分の命をかけても成し遂げたいとする思想につながっていた。その思想に興味があったかというとそれも違う。思想そのものではなく、日常性を打ち破るに至るエネルギーの根本となるものというか、「特異点」に興味があった。その時それが起こってしまう時代性は何なのかという、抽象性にあったと思う。ぼくが青春時代にあった時の時代の切迫感はどうして存在していたのか、というふうに表現できるかもしれない。

行き詰まっていた。

ちょうどぼくも将来の職業選択がどうしても決められない迷いの時期に当たって、行き詰まっていた。何か訳がわからないけど漠然と全てが悲しかったのを覚えている。ちょうど宇多田ヒカルのデビューアルバムの全てが悲しかったように。(宇多田ヒカルとは時代が異なるが、彼女がどうしてあの頃悲しかったのだろうとコメントしていたのを聞いて、自分も同じと感じたのだった。ついでに言うとぼくの世代ではユーミンの「ひこうき雲」の悲しみに近いかもしれない。)

どうしてあの頃悲しかったのだろう?

高校3年の同級生 Aとは東京と金沢で進路が分かれて離れ離れとなったわけだが、金沢で最後のきちんとした別れ方をしなかったこともあってしばらくして手紙をもらうことになる。その日、自宅から歩いて通える美大から夕方帰宅する時に、なんとなく手紙が来る予感がしていて、自宅玄関横の郵便受けに果たして予感通りに手紙があったのをやはり来たと感じたのだった。手紙には東京での住所と電話番号が記されていた。その他の内容については忘れてしまった。そしてぼくがどんな返事を書いたかも忘れてしまっている。ただ、それまでの彼女の自分の態度には幼稚な部分があったのを恥じて、今は成長して対等にぼくと接することができると伝えて来たというような、漠然としたかすかな感じがある。今から思うと高校の時にぼくから見くびられたように感じて、それが許せなかっただろうと思う。ぼくのせいもあって受験勉強が思うようにできなかったのを、東京の塾に通って挽回するのに張り切っていたかもしれない。あるいは高校の時は本当の自分を見せる余裕がなかったけれど、もう本来の自分に戻っているからそういう自分を見てとアピールしてきたのかもしれなかった。それに対して自分の受験に差し障るから付き合いをやめるようにして遠ざかった自分に負い目を感じていたぼくの方は、相談することなく一方的に距離を置いていたことを謝った気がする。(だんだんその当時のことが記憶に蘇ってきたかもしれない、、、)

ぼくは学生運動に関わりだした頃、東京で集会があると連絡を取って再会することになる。初めて東京で会った時は、ぼくが東京に不慣れなこともあって彼女の方が話を先に進めることが多かった。東大赤門の本郷キャンパスの学食を食べに行って、ぼくが東大生でなくても大丈夫なのかと訊いたら、全然大丈夫よと東京人になったように答えていた。

自分の運命を自分で、自由を確保しながら拓いていく、ということが果たしてできるものなのか?そのためには運命という状況をまず認識できなければお話にならない。その状況が何で構成され、そのうち具体的で目に見えるものがあれば、それを感じるだけの感性がなくてはならない。ぼうっとして鈍いぼくには、言われた言葉の意味の方ではなく、言わずにほのめかす時の表情や仕草の意味に気づくという芸当は不可能に近い。65年間という人生でそのように自分のそばを通り過ぎていく、未明の運命というものがどれだけあったことだろう。例えば、運命というに相応しい状況が半分ぐらい訪れているのに、ドラマにあるような、直接会って本当のことを打ち明けるということができなかった。会うことなくそのまま別れてから、取り残されることがどんなに辛いかを思い知った。

大学進学が入試の結果を見て確実になって、ともかく心が晴れ渡った経験を味わっていたころ、付き合っていた同級生のAから電話をもらった。受験に失敗して浪人することに決め東京に行くから、と別れの電話だった。本格的に受験勉強を始めた3か月くらい前からその彼女とは疎遠な関係になっていた。Aは東京に行く前にぼくの声を聞きたくなって電話してきたと思われ、予定した報告をしたあと、ぼくに今読んでいる本は何かと訊いたのだった。ぼくは真継伸彦の「光の聲」と、ただ事実だけをそのまま答えた。Aは自分も同じ本を読もうとしたのかもしれない。しかしその小説の内容は、僕たちの関係に深い溝を刻むような運命を描いていた。(もちろんそれは読んで初めて分かることだったが)Aの父は共産党員で、いわゆる専従で組合から給料をもらう身分だった。

Aはぼくにとって運命的と思える存在だ。何か運命的要素に客観的事実が必要だろうか? 高校3年の時の同級生であるに過ぎないならそう呼ばないはずだが、ここであれこれ事実を振り返るには少し気が重い。ただ平坦なぼくの人生の中で登場する、平坦さにおいてさほど違いのない人たちとは異なる部分があり、それがいつまでも忘れがたくさせている。

どこか気取った喋り方をするのは村上春樹の小説中に出てくる登場人物に似ているかもしれない。プライドがあり自分の世界観の中で自信に揺るぎがない。つまりひとつの存在であり、自分の影響力を試して存在感が増すのを見るのが好きなエゴイストかもしれないと疑うこともあった。絶大な父と対等かそれ以上のキャラクターで対応するくらいの力を付き合う相手に求めるところがあった。無情であった頃のぼくがAを冷淡に扱い、後になってかけがえのなさをAに見出した時、逆にAから冷淡な扱いを受けた。傷つけ合うと同時に引き合う力を感じ、ライバルのように尊重し合うような関係だった。

小説「光る聲」にはAの父と同世代の共産党員の大学教授が登場し、戦中には特高の転向強要で瀕死の状態に遭い、1956年のハンガリー動乱時にはソ連の侵攻に反対する決議を日本共産党に出すという歴史的事件を描いている。世界史にはおびただしい死者が記録されており、20世紀には二人の人物が死者を量産する究極の悪を執行している。ヒトラースターリンだ。ハンガリー動乱を鎮圧したソ連に明確に反対する反スターリン主義を普通の私たちの歴史に登場させるには、「光る聲」に登場する共産党員やAの父のような人たちの苦悩を受け止め、乗り越える必要があると思っている。

ぼくは女の子に振られて悲しかったのではない。三島由紀夫連合赤軍のメンバーの「絶望」を感じて悲しかったのではもちろんない。でも確かに時代の空気が悲しかったのであり、その感じ方はぼく一人ではなかったと確実に言えると思う。悲しみの質でいうとサリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」に流れる悲しみに近い感じがする。まず孤独と周囲との疎外感が悲しみを作っている。そうだ。疎外という言葉があの時代流行していた。疎外という概念があの時代多くの思想に生きようとしていた人々(われわれ)の心を支配していたのだ。

ぼくは美大に進学していて、デザイナー志望が集まる、職能資格を得るための学校に入ってしまった。受験倍率7倍だったので受かった時はそれなりに嬉しかったのだが。毎日、4年分のメニューの中から課題が与えられて、ぼくのような社会派の勉強をするにはもちろん向かない環境だった。

ぼくが美大を受験する前の年は、県内でも進学校として知られる高校にもかかわらず美大に入学した先輩が14,5人いた時代だった。ほとんどがインダストリアルやコマーシャルデザインの方で、油や日本画や工芸の方には進まなかったように思う。(途中で転校した先輩もいたらしい)コマーシャルでも横尾忠則糸井重里のようなスターが活躍し始める頃で、社会の仕組みに取り込まれない暑い空気感も感じられた頃だった。ユーミン多摩美大、村上龍武蔵美出身で、必ずしも美大だから美術関係の進路に進むとは限らないのではあるが、地方の美大からでは、音楽や文学関係の進路に進むには才能が多方面に創発される刺激に乏しかったかもしれない。ぼくは受験選択を間違ったかもしれないという思いから自分を懐柔させる曖昧さに逃げ込んでからは、デザインに縛られずに、つまりはデザイナーの道を放棄して芸術一般のフリーパスポートを手にしたことにして、片っ端から興味のあるものをかじることにした。

ジョン・ケージ高橋悠治の現代音楽を聴き、マルセル・デュシャンフランク・ステラやデ・クーニングなどの現代美術に触れるようになり、シュールレアリスムやロシアフォルマリズムの文学や美術「運動」というものにも興味を持った。針生一郎美術手帖に載っている評論家の論文にも刺激を受けていた。つまりはあの時代が吐き出して発散していたエネルギーを貪欲に吸収しようとしていた。その頃のぼくは心に飢餓を抱えていたので時代のカオスで満たす必要があったのだと、今では思っている。

今の時代には抒情や情念が全く欠けていると思う。ぼくも引きこもっていた時期があるが、ほとんど誰もが引きこもりの経験があり、ないのは鈍感でどうかしていると髪の長い文学少女に馬鹿にされていたものだった。アンニュイという言葉が生きていた。今の時代、引きこもっていると病気扱いされて社会から取り残された敗者のように見られるらしい。だいたい僕らは現代社会を否定する道理を語る哲学者や評論家に取り囲まれていたようなものだった。社会の方が間違っているのだから平気でいられた。ぼくが美大受験を決めたのは、美大祭の前日に仮装した男女が乗ったオープンカーが、香林坊を夢のように通り過ぎたのを目撃したからであった。金沢の人は昔から普通じゃない人には寛容だった。そういえば金沢の開祖である前田利家も若き頃は織田信長にも勝るとも劣らない傾奇者(かぶきもの)だったらしい。そのオープンカーを目撃したのは1970年の頃だった。

ぼくは大学3年次を留年している。とても傲慢に聞こえるかもしれないが、その時これまでずっとまあまあ順調に来ていたので1年ぐらい猶予期間をもらってもいいのじゃないかと考えて、本当に自分の支えになる世界観を築こうと自主留年したのだった。作家の三田誠広は高校2年次に1年間休学して、自分の立脚点を作ろうと思想書などを読みまくったそうだが、能力の差はあるだろうがぼくも同じことを考え、資本論などを苦労しながら読んでいた。三田誠広はその頃の日々を「Mの世界」という小説にまとめているが、ぼくにはそのような力がなかった。資本論ヘーゲル弁証法の論理で古典経済学を批判的に再構成して、資本主義を内側から分析したもので、読むには厳密に学問的態度を要求される。読んだことのない人は、マルクス共産主義の黒幕のような狂信的で怖いイメージで捉えている人もいると思うが、レーニンのような革命家ではなく、学者肌の人だったとぼくは思っている。ただし影響力は絶大で歴史を塗り替える革命や国家の独立の源泉を作った世界史的超重要人物には違いない。ぼくが1年間だけ関わった学生運動では当然マルクス主義の世界観をとるわけだが、実践を重要視するのでレーニンの「国家と革命」をいきなり勧められたりした。また黒田寛一という革命家の理論書も「社会観の探求」とか「現代における平和と革命」などを基礎的なテキストとして学習会がもたれたりした。これまた学生運動をあまり知らず、ニュースで報道される「悲惨な」事件でしか知らされていない人にとっては、これらの本で洗脳させるようなイメージを持つかもしれない。確かに教養として勉強だけするわけではないので、究極的には革命家としての理論を身につけさせるものだと思うが、たえず自分がどう行動するかの判断を育てるもので革命家になるならないは自由なのだ。もちろんぼくはその気はなかったが、先輩にはその気があった。現在のぼくはその頃学んだことは教養として残っているわけだが、学生運動を離れて普通の社会人としてその教養が支えになっていなくもないと思っている。

 

会社に代わるプレイスは他人とのコミュニケーションが可能なシステムが必要である。その場所をどうやって見つけるかが意外と難しい。そこで思いついたのが読書会という場所であり、まずは身近なところからということで、高校の同級生とわが町の公民館のサークルで始めることにした。

高校の同級生で気のあった友達と読書会をやることにした。いざ街のコーヒー専門の(500円以上する)喫茶店で始めてみると、やや失望感が漂い始めた。彼の小説の読み方と私のでは当然のことながら違いが現れてくる。 客観的と主観的とでもいおうか、彼にとって主人公は他者であり私にとって主人公は私なのである。私の読書は作者と主人公の中に入って追体験しようとするものである。 しかし追体験しようと意志する自分は問われる必要はないのだろうか? 無となって追体験の中に没入してもよいのだろうか? あるいは読書を終えるまでは無であって、追体験で得た私の疑似体験は改めて自分を構築し直す必要があるのではないか? それは読書前の自分と読書後の自分の違いを取り出し、その様相を書くことで何かが生産されることになるのではないだろうか?

どんな名作と言われている小説であっても、自分が読むことで感じたり考えたりしたことのほうが意味があり、その小説で受けた影響に正直になることをぼくは読書の第一義に置いている。その影響を語り合うのが読書会の実質であり、自ら語ることで自分の考えを定着できる場とすることも可能だ。