彷徨える初期高齢者

The time I retired from jobs is the period reviewing and comprehending my past life.

読書記録(総集編)

昨日の読書会は10人ほど集まりました。訊いてみるともう30年以上続いているみたいです。課題本の石川淳の「紫苑物語」についてほとんどが肯定的な評価をしていました。自分の判断で(評論家の解説などに影響されない)感想を述べる人は半分です。ぼくは全く評価しませんでした。配られた資料によると、石川淳はこの作品で芸術選奨をもらったのだそうですが、その当時の選者は小説の芸術性に偏った権威者だろうと思いました。主人公の地方守護職は弓の性能にとりつかれ部下を試すように殺すような若造で、どうしてこの作家は取り上げたのか、歴史小説の形式でさも昔はこんなだろうと書く小説は有害であると、ぼくはその場で発言しました。読み物としてスピード感のある文章もあった面白いかもしれませんが、それだけのことです。感情移入がそもそもできないので読むことで追体験ができない娯楽小説でした。ただ賛同というか認めてくれる人もいて、違和感を感じることはありませんでした。うつろ姫という肉欲だけの妻も話題になり一人だけ肯定する女性がいて、ぼくは下を向いて苦笑しましたが。石川淳安部公房の師でもあるので、「砂の女」はうつろ姫と似ていると感じました。

f:id:hotepoque:20190129105224j:plain

どんな名作と言われている小説であっても、自分が読むことで感じたり考えたりしたことのほうが意味があり、その小説で受けた影響に正直になることをぼくは読書の第一義に置いている。その影響を語り合うのが読書会の実質であり、自ら語ることで自分の考えを定着できる場とすることも可能だ。

 

f:id:hotepoque:20180328214901j:plain f:id:hotepoque:20180328214928j:plain

今日は午後から泉野図書館へ行っていつもの本の続きを読んだ。辻邦生の「言葉の箱」は今日で読み終わった。5回ぐらいで読了になったが、なかなか勉強になった。小説でも自分が何を書きたいかの核が大事で、それを見出す必要がある。小説はF+f である。Fはファクト、fはフィーリングでこれが漱石の定義だということだった。「日本精神史」は仏教の伝来の歴史で、最澄空海まで進んだ。仏教はまず仏像という形から入って、写経の時代を経て、中身は最澄に至るまでにかなりの時間を要したという長谷川宏の説が興味深かった。 日本に民主主義が「伝来」し定着するまで、やはりかなり時間がかかり歴史的段階が必要なのかと慨嘆したのだった。

今日借りていた本を返しに泉野図書館に行った。雪が降って外出が面倒になっていたが、午後どうしても部屋にいることが苦痛になって出かけることにした。公開ホールにはちょうどいいくらいの利用客がいた。 本を返して何となく次の本と出会えないかぶらぶらして、ふと見上げると2階がギャラリーになっていて10数点の油絵がかかっていた。2階に初めて上がって間近に順番に見ていくと、ユトリロ風の絵に目が止まった。 ああ、この人もユトリロのパリに心を奪われたのだなと思い、ぼくは自分の過去をも思い出した。美大受験の高校3年の冬に部屋にこもって、(冬になると少年のぼくは冬眠していた)図書館から借りてきたユトリロ画集から気に入った絵を模写していた、、、、。あの頃の雰囲気が心に湧いてきた。それは現実の空虚をあこがれの風景と物だけで埋めてしまうという「部屋の中の熱情」だった。思いっきり世間知らずにいられて、内面に閉じこもることが受験生ゆえに許されていた。ぼくにとって幸福な時期のひとつだった。

 

 

f:id:hotepoque:20181205094010j:plain

定年延長の契約を解除し無職となって、一人で自宅に引きこもるようになって半年になる。妻はまだ会社勤めなのでウィークデーは実際一人きりになる。この環境は自ら選んだとはいえ、最初の頃は帯状疱疹になるくらい、思ったより精神的につらいものだった。まるっきり何をしてもいいとなると、本当は何をしたいのか分からないので「理由」を見つけたくなる。意味のあることをしなければムダに過ごしてしまうというプレッシャーがあった。だから前半の三四ヶ月はプログラミングと英語の勉強を毎日続けていた。パソコンと毎日対面していてコンピュータの世界を探求して見ようかと思ったのと、英語が読めたり話したりすることはずっと前から憧れていたことだから。しかしそれは心の底からやりたいことではなかった。どちらも得意ではなかったし、自分がこれから生きて行く支えにはなりそうもなかった。認めたくはなかったが、遅まきながら60を過ぎて自分探しを始めていた。

自分を職業ではなく名前のある人間として、どこかに存在させたかった。私は就職前の学生の頃までもどって、職業以外に自分を定義する何かを見つけようと思い、小説を読み始めた。二三冊読み始めてから何となく「1Q84」を読まなければならないと思った。数年前仕事でお世話になったデザイナーのU女史が、友人から「1Q84」を読むように勧められていると聞いていたことが頭のすみに残っていたらしい。2010年に「1Q84」のBook3が発売され100万部を越える売れ行きを示していたので、デザイン業界でも話題になっていたのだろう。

1Q84」は現実の1984年とは異次元の1Q84年の物語である。読んでみると、現実に日本で起こったことが小説中に取り上げられている。メインはオウム真理教らしき団体だが、NHKは実名で登場する。読者はその物語に様々な切り口で謎を解こうとし、「入り込む」ことになる。(村上春樹の文学は読者を参加させることに本質があると私は思っている。)私は自分独自の方法で入り込もうとして自分と「1Q84」の接点を探していた。ふと思いついて自分の1984年に何があったかと思い返していた。それは自分と村上春樹を結びつけるのに十分な理由となるものだった。
私は1984年に妻と結婚していた。青豆と天吾が1984年に結ばれたように。しばらく村上春樹の小説の中で「生きて」みようと思う。

 

 

f:id:hotepoque:20181205091820j:plain

ぼくは石川県の野々市市というところに住んでいる。金沢市の隣で2、3年前に市に昇格した「伸び盛りの」街には最近できた立派な図書館がある。広い芝生を前にした道路側がほとんど全面ガラス張りの窓になって明るい室内になっている。どちらかというと子供連れの若いお母さん向けにできている。金沢市の図書館は3箇所あるが、どこも大人と子供は分けて作られているのに対して、ここは同じ空間内にあり、そのせいもあって明るいのかもしれない。入ってすぐに高齢者に占拠されているような印象にはならない。そこの一室で我が野々市市住民10名で読書会が行われた。50代女性一人を除いてぼくよりご高齢の方々がメンバーであり、なんと30年以上続いているとのことで、ぼくは参加して一年と三ヶ月になる。課題本はメンバーが順番に選ぶことになっていて、前回はぼくの番で「ハムレット」を選んだ。今回は山本一力の「グリーンアップル」という短編だった。どちらかというと後者の方が課題本の平均的な水準を示している。時代小説家で直木賞作家の山本一力の、珍しいアメリカの現代を描いた短編である。小説中の今は2015年になっている。ぼくはあらすじをまとめて言うのが面倒くさくて、この短編もうまくまとめられない。

主人公はトムという男でイラク戦争に志願して参加している。身長が168センチしかなく仲間はビックマックと呼んでからかっていた。実家はアリゾナ州セリナというところで客室10室のインを経営していた。9.11があると客が減り、経営感覚ある弟に引き継がせて自分はニューヨークに出てくる。インでは料理を作っていたので小柄な彼は炊事部隊に配属となる。4ヶ月の訓練ですぐさまバクダッドに派遣される。戦車3両が先導した隊の最後尾の7台のトレーラー(弾薬、燃料が5台、食料、冷蔵庫等に2台)に彼は乗っていたが、イラク政府軍の戦闘機が来るとわかると降りて塹壕を掘りそこで待機することになる。敵はわざわざ正面から攻めない、一番手薄なトレーラーを狙う。戦車が一番安全で炊事部隊が一番危ないのは考えてみれば当然かもしれない。弾薬、燃料が入ったトレーラーが爆破され彼は塹壕の中で気絶していた。、、、このようにあらすじを書こうとすると延々と続きそうなのでやめる。とにかくごく普通に日常から戦場まで行くのであり、現代の戦争は日本の先の戦争もののような死と隣り合わせの緊迫感がない。赤紙が来るのを待つ間に死を覚悟するような精神性は感じられない。むしろ除隊後、イラク戦争は間違いとする世論から、特に若い女性から血の匂いがすると毛嫌いされて居場所がない思いをすることになる。戦争に志願するのはインの客に感化されたのと、働き口が見つからず高給な軍隊に行く方が9.11以後の報復一大キャンペーンにのっかるような自然な流れだった。その自然な流れが曲者だと日本にいるぼくは思うのである。

 

 

f:id:hotepoque:20181205071459j:plain

野々市市(ののいちし)の公民館の読書会でぼくが当番になった時、コロンビアのノーベル賞作家ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」を課題本に取り上げた。果たしてちゃんと読んできてくれるのかそもそも心配だった。これまで海外の小説を取り上げたことがなく、題名を聞いて「なんか恐そう」と言っていたおばあちゃんもいたからだ。80代のおじいちゃんはちゃんと読んできていて、面白かったと言った。若い頃から本を読む習慣ができていると齢をとっていても、現代の世界文学にも読み取る力があることが分かった。

そのおじいちゃんは気さくで場を盛り上げることができる人だ。若い頃には「ファウスト」を読んで感銘を受けたらしい。全くインテリっぽいところがない、カラオケの持ち歌も多い楽しい爺さんだ。まだおばあちゃんというには早すぎる、文学少女のままの知的好奇心を持った女性がいて会の中心的な存在になっている。彼女は源氏物語を読み通していて日本の古典にも明るい感じをコメントからうかがえる。彼女はなんとマルケスの「大佐に手紙は来ない」も読んでいた。

ぼくが「予告された殺人の記録」に出てくる求婚者の父のペドロニオ・サン・ロマン将軍はその大佐の敵側の将軍であることを指摘すると、ああそうかと言ってくれた。そのようにマルケスの小説は同じ登場人物が出てきて繋がっている「大小説」なんですと言い、これはバルザックの「人間喜劇」の手法を踏襲していて村上春樹もその意識があるみたいです、とぼくはちょっとばかり得意になって世界文学を解説した。(バルザックは「谷間の百合」を読んだくらいなのに偉そうで反省している)
とにかく心配していたことはあまりなかった。というのは前回来てたメンバーで欠席したのが二名だったからだ。(もっと欠席者が出ると思っていた)
 
 
 

f:id:hotepoque:20181205092101j:plain

わが町の公民館読書会があり、今回ぼくが当番で課題本を選んでその感想を話し合う司会役となる。課題本はなんと「ハムレット」だ。シェイクスピアをこの歳になるまで読んだことがなく、昨年の春に友人と二人で「テンペスト」の読書会をやって戯曲に目覚めたので、今回本丸の「ハムレット」を読もうと思ったのだった。誰もが名前だけは知っているハムレットとはどういう人物なのか?意外と知られていないかと思って課題本にしたのだが、読んでみるとぼくには巷に流れている優柔不断のキャラクターとは全く違う意志の強い、悪と戦う戦士の像が浮かび上がった。実際に舞台の最後でハムレットの遺体は抱きかかえられ、大砲の音とともに戦士として称えられる。ただしその戦いは陰謀を暴くために狂気を装い、真実を暴くためには狂気と道化という想像力の力を必要としたところが、シェイクスピアの劇の面目躍如たるところだと思った。それはまさにシェイクスピアの生きた時代が、イタリアから始まるルネサンスというヨーロッパ文芸復興(実は教会に対する革命運動)の時代だったからである。そのような落ちで読書会ができればいいかなと思っていた。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ハムレットを読んでその感想を読書会のメンバーの前で話したら、期待していた反応が返ってこなかったので、あれ何でなのだろうと心にしこりが残ったことがこれを書く動機になっている。ハムレットってあまりにも有名で、シェイクスピアの劇としておそらく何万回と演じられてきているから、今更ぼくがどうこう言っても客観的に何かが残るということはありえないのだけれど、ぼくの「発見」が何かの刺激を産んでSNS上で誰かがハムレットを読んでみたくなるとすると、それはそれでちょっといいことじゃないかと思う(そんなわけないか、、、、。)けれどもそれはぼくがハムレットを読んで得た「発見」がうまく文章に展開されてのことだし、「発見」と思っていることの価値は全く保障されないものだ。

「発見」というのはハムレットがヨーロッパ中世を終わらせる、ルネサンス運動のシンボル的な英雄の一人ということだ。もちろんマルティン・ルターなどが中世のキリスト教会支配を改革する歴史上の功労者ということに違いないのだけれど、ギリシャ・ローマ的な人間精神に還る芸術家の創作行為の連鎖がヨーロッパの当時の人々に与えた「教育的価値」は、革命運動と称されてもいいくらいだと思っているぼくとしては、ハムレットをその一員に加えたくてしようがなくなったのだ。シェイクスピアハムレットに狂気と道化を演じさせて、自分の叔父が前王の父を毒殺して母を妃にするという権謀術策によって得た腐敗した支配体制を、「内側から」「悟られることなく」崩す戦術を取らせた。いわば不正に王となった叔父を不安に落とし入れ自らの延命策に逆襲されるように、ハムレットを行動させたのだった。

剣の先に毒を塗って試合をさせたり、ワインに毒を入れて試合中に飲ませようとしたりした「不正」が暴かれて、衆目一致するところとなり「崩壊」を迎えることになる。シェイクスピアは復讐の正当性が衆目一致するところとならなければ、単に反逆テロにしかならないことを知っていた。また顧問官のポローニアス家(オフィーリアは娘、試合の相手のレアーティーズは息子)を自分の復讐に巻き込んでしまったことの責任を引き受けて自らも死に赴かせている。

そしてデンマーク王族はみんな死ぬことによって親族関係にあるノルウェー王国に引き継がれて、一つの時代が終わる。ハムレットルネサンス的英雄としてぼくは描ききれているだろうか?もっと狂気を装った言葉による攻撃やら、劇中劇の俳優に語らせる戦術などを述べて論証したいところだが、とても力が及ばないのでこの辺でキーボードから手を置くことにする。


 

f:id:hotepoque:20181205071149j:plain

ぼくの住んでいる野々市市(ののいちし)公民館の読書会に参加してみる。今回の課題書は星新一の「おーいでてこい」と「月の光」である。星新一の小説は初めて読む。社会風刺になっている小話とでもいうべき作品だが、こんな小説が作られていたことに新鮮な(驚きというべきか、発見というべきか)感じがしたが、ぼくには割り切れないものが残った。これは果たして小説と呼べるのか?語り手はいるのだが主人公というものがいないので、小説中に感情移入して入り込むことができない。というか、読者を安易に近づけないように謎をかけるような話の運び方をしている。

ぼくは本と一緒に暮らしているようなもので読まない日がないほど数冊手元に置いて読んでいる。ある作家が小説は19世紀で一度終わっていると言っていたが、小説中に生きている現実を描いてないと入り込めないのでぼくにとっては役に立たないのだ。小説中のリアルがぼくの現実と噛み合うと夢中になれる。最近では村上龍の「55歳からのハローライフ」が身につまされて読みがいがあった。

ぼくの高校時代は読書が「人格の陶冶になる」と信じられた良き時代の雰囲気が残っていた。だから世界文学全集から抜き出しては次々に主人公の真似をして「かぶれ」ていたものだ。それが過ぎて登校拒否を暫くするようになったりしたが、、、、それはさておき星新一という作家は果たして小説家と言えるのだろうかという疑問が残る。テーマや着眼点は面白いのだが、それを登場人物に展開させてストーリーにしているのだろうか?それはストーリーではなく、コントなのではないだろうか?

 

 

f:id:hotepoque:20181205071323j:plain

野々市公民館の読書会の3回目だったかの時、井伏鱒二「朽助のいる谷間」という短編をみんなで読んで感想を述べあった。前回の石川淳よりは温かい気持ちになれて、この国民的作家の一人に馴染むことができてよかった。

井伏鱒二村上春樹と同じように弱者の立場で書いている。からゆきさんが海外に出て行った時代の、ハワイ移民の朽助が帰国して、同じく帰ってきた混血の美少女の孫と谷間の村に住むことになり、そこがダム工事で沈む時の薄幸の人生の一コマを描いている。主人公は20代後半のほぼ作者自身で幼少の頃に朽助に育てられている。

朽助に立ち退きを承諾させるために訪問し、同泊するうちに混血の美少女タエトに淡い恋心を抱くが見破られ、手を握ったことは手相を見るためだったように体裁を取り繕ってなんとか朽助への面目を保つ、クライマックスもあり読ませる作品になっている。最後はタエトに朽助の落胆からの面倒を託していて、若者への作者の信頼を表していて明るく終わっている。それは黒い雨を読んだ時の「明るさ」に通じると思った。

 

 

f:id:hotepoque:20181205071958j:plain

星の王子さま」の多くの読者層(母と子と思われる)というものがあるとして、私はその人たちが感じるだろうものとはまったく異質の水脈を引き出すことになりそうだ。 それはヨーロッパの民衆的な良心のような、歴史に埋もれる死者の無言の心情のような、正義の受難のような水脈である。その水を飲むことを選びとって消えていく英雄のように星の王子さまが見える。

この本を中学の国語の授業で知ってから自分でも読んでみようと手に取るまでに、こんなにも年月を経なければならなかったのには、一般に子供向けの本という印象が邪魔していたからだろう。 サラリーマンの間も会社仲間の誰もが読んでいない純文学を自分で決めた基準で読みつないでいたぼくでさえも、この本はパイロットが文学的趣味と才能を捨てきれずに片手間に書いたものだろうという、とんでもない無知ゆえの偏見をもっていた。

第二次世界大戦中のヨーロッパからアメリカに渡り、出版されてほとんど間を置かず作者がマルセイユ沖で偵察機ごと帰らぬ人となる「文学的事件」は、いやがうえにも「星の王子さま」とサンテグジュペリを不滅のものにした。 ヒトラー占領下のパリに残された同胞のことを想いいたたまれなくなる行動派の作家が、自分の死を賭けて子供に託した小説を残したかった決意に触れることになるとは、この本を読む前には想像もつかなかった。 その決意は星の王子さまという子供の物語として描かれているだけに、せつなく、いたいけで、戦時の悲惨と絶望の中にあっても人間的で愛らしさを失わないように「こころ」で語られている。そこに現実ときびしく対峙しながらも文学を信じている高貴な精神があるとぼくには感じられた。ドイツ空軍のメッサーシュミットパイロットたちの中には、彼の部隊と戦うことをできれば避けたいという気持ちがあったそうだ。

 
 

f:id:hotepoque:20181205072153j:plain

久しぶりに村上春樹の小説を読んでいた。あまり注目されなかった「中間的な」作品である「1973年のピンボール」である。村上春樹については毀誉褒貶相半ばすることがいわれているが、貶す人の中のリアリズムがないという意見には違和感を覚える。そういう人は文学に何を求めているのだろうか、そもそもリアルさには妄想もあるのが文学の世界なのだから、そういう人は別に小説を読む必要がないのじゃないかと思ってしまうのだ。カフカが「変身」を書いてしまったのだから文学を愛する人には非現実もありで、辻褄の合わない非現実さえなければウソの世界もありだと思う。そんなことより何が最も大事かというと、面白いことだ。このあっけない結論には苦笑してしまうが、「カラマーゾフの兄弟」を読んでとにかく話や登場人物が面白くて仕方なかった。そして「1973年のピンボール」も同じ体験をした。多くの人が村上春樹の小説の謎解きをしたりして楽しんでいるようだけれど、そんな面白さじゃなくて、自分も少し無気力になって小説の中で同じ時代や空間を生きているというリアルさにあると思う。  

 

 

f:id:hotepoque:20181205072720j:plain

「朗読者」読書会で金沢の玉川図書館に参加してきた。意外にも男性が多い会だった。女性4、男性8で、少しマニアックなというかスノッブな感じのする人も入っていた。主催者は、ミヒャエルやハンナに追体験する読み方ではなく、外にいてひたすら読み解こうとしている人たちのようだった。やたら深読みして自分の解釈だとこうですとそれぞれが主張して議論になるから、面白い面があるが、カタルシスが得られない読み方だ。例えば、文盲と読む文化のぶつかり合いで結局平行線のままに終わるとか、社会的なものと個人的なものがどちらにも収斂しないとか。ちょっと失望。

ちなみにこの読書会に、これから3ヶ月ほどヨーロッパを主人と回るんですけどという、品のいいお婆さんが参加していた。彼女はドイツでは自分たちの過ちを忘れないために、アウシュビッツを残しているのに日本は自分の過ちを忘れないためにどうして何も残そうとしなかったのかと言っていた。ぼくは、だから韓国や中国で日本の代わりに残そうとするのではないかと言おうと思ったがやめた。

 

 

f:id:hotepoque:20181205072840j:plain

今「日常生活の冒険」を読み終えた。60年安保や広島の原爆という政治に関わった一世代先輩の小説家の、私小説に近い物語は暗澹としたものだった。「洪水はわが魂に及び」を読み終わった時も同じ感想を持ったが、この作家はどうしてこんなにも左翼の肩を持つのだろうかというものだった。時代とともに生きるという作家的心情は、あまりにもエリート臭があり隔たりを感じた。村上春樹もこの小説を読んでいて最初の「風の歌を聴け」を書いたように感じられた。村上春樹はフランス文学のやり切れなさからアメリカ文学に移って学ぼうとしたが、ある著名な文芸評論家が言っていたように、彼も先輩と同じ道を歩いていると思った。

自分の人生をドラマのように生きられたらどんなにいいだろう。自分でドラマの脚本を書いてその通りに生きてみる。もちろん衝突とか挫折はあるだろうが自分が主人公として生きている実感のもとに、乗り越え自分の人生を進んでいく。おそらく「日常生活の冒険」というタイトルから受けるのはそういう期待感だ。
この小説を読んで作者の、あるいは主人公の冒険物語を追体験したあと、今度は自分の場合はどうなんだろうと考えるのが生産的な読書になる。ぼくはどちらかというと「ぼく」の立場、つまり作者の側の人生に近い(と言ってもスケールは全く違うが)だろう。行動する友人、斎木犀吉を近くで見て憧れたり影響は受けるが、結局はそのようには行動せず、自分のできることや考えることの中に帰っていく人生だと思う。

ぼくが影響を与えようとする時には、自分の世界を創り上げてそこに共鳴してくれる人ばかりを集めて自分が主人公になるやり方をとるだろうと思う。それがぼくの「方法」なのだ。では自分の世界はどうなのか、それはどんなドラマなのか、、、

斎木犀吉はヒーローなのだろうか?これまで読書会で取り上げた「星の王子様」や「デミアン」や「グレートギャツビー」のようなヒーローと比べるとき、何かくすんで、胡散臭いところを感じて手放しで受け入れることはできない。心からの共感はない。あくまで大江健三郎の青春だった時代のヒーローで、サルトルが描いたロカンタンのような、時代を超えたヒーロー(アンチヒーローと呼ぶべきか)にはなりえていない。

 

 

f:id:hotepoque:20181205073009j:plain

今月の野々市町公民館による読書会で山本有三の「真実一路」を取り上げる。10人のメンバーで当番制で課題図書を選んでいくのだが、今月は古株でどちらかというとリーダー格のNさんが選んだ。先月はぼくが選んだカフカの「審判」でNさんは、実存主義の文学という知識があってそういう目から作品を見たので、ぼくは「審判」のどこにそれを感じたかと質問した。彼女はその場でうまく答えられなかったのが悔しかったらしく、解散後しばらくしてから回答をメールで送ってきた。「(主人公が)金持ちの婚約者と結婚せず家も継がなかった、つまり既存のものを捨てたところ」というものだった。ぼくは「父が主人公の欺瞞を嘘と見破って死を言い渡すところ」と自分の見解も言わないとフェアじゃないと思い、返信した。つまりそれぐらいの熱心さでこの読書会は毎月運営されている。幾分Nさんの見解が社会的な見方をするのに対して、ぼくは個人の考えに主軸を置く見方をする。そのNさんが「真実一路」を選んできた。おそらく彼女の人生観がその選択に反映していると感じられる。

ところでこのいかにも時代を感じさせる「真実一路」という小説は、この読書会で取り上げられなかったら一生読む機会のなかったような、ぼくにとって全く死角にあるものだ。さて長編にもかかわらずスラスラ読めて感想は面白かったのである。戦前の平均的な(やや上のクラスかもしれない)日本人の人生が一つの物語として全体的につかめた感じがした。ちょうど「細雪」が関西の上方文化と一体となった人生物語を見せてくれたように、「真実一路」はシリアスな知識人的でない普通の人の生き方を見せてくれた

 

 

f:id:hotepoque:20181205074158j:plain

「ただひとつ、できないことがあった。他の連中がするように、心の中にもうろうと隠れている目標を外に引っ張り出して、どこでもいいから目前にえがくということだった。他の連中は、自分たちが教授なり裁判官なり、医者なり芸術家なりになろうとしているのを、それまでにどのくらい時間がかかるか、そしてそうなれば、どういう利益があるかということをはっきり知っていたのだ。ぼくにはそれができなかった。もしかしたらぼくだっていつかはそんなことができるかもしれない。しかしどうしてそれがぼくにわかろう。おそらくぼくも、何年もの間さがしにさがし続けねばなるまい。そしてろくな者にならず、目標には達しないだろう。あるいはまた、目標に達することもあるかもしれない。しかしそれは、悪い、危険な、恐ろしい目標である。ぼくはむろん、ただひとりでにぼくの中から出たがっているものだけを、生きようとしているにすぎない。それがなぜ、こうまでひどくむずかしいのだろう。」________『デミアン』より。

ぼくの高校から大学にかけて、全くこのようであったのでまるで自分のことが書かれてあると少し驚いた。というか100年以上昔で、しかも国が違うのに同じような精神状態であったことはほとんど奇跡に近いのではないだろうか?この時期の同一性を大切にしまっておこう。定年退職したぼくは世間的な目標などもう気にする必要がないのだから、もうひとつの目標(悪い、危険な、恐ろしい目標)の方を意識の中で追求してみたいと思う。それは今やっている、「青春時代に還って自分を作り直す本を読み解こうとする」ことだ。もう青春時代に戻れやしないのだからおそらく危険だろうと予感する。

 

今回の「デミアン」読書会では、作者のヘッセという人にナイーブな幾分厭世的なイメージをこれまで抱いていたが、自分の内面と外の戦時体制化する世界とを対決させている真摯な文学者だったことが分かって収穫だった。文学者の政治参加という、もう少し歴史を経てからの枠組みで見ると、ヘッセは反ナチの同盟には組しなかったという非難が下されるが、作家として一人で小説創作(「デミアン」以降、ナチ政権時代にスイスで書かれた「ガラス玉遊戯」がある)で、ナチ第三帝国に対置しうるユートピア(ビジョン)を描き出した偉業は高く評価されるべきと思った。(実際はこの小説でノーベル文学賞をとっているので知らないのは僕だけなのかもしれない。) もとよりドイツでは哲学によって現実世界の成り立ちに対抗しうる体系化された言語世界というものが作られている。ヘーゲル、カント、ニーチェハイデガーなどがドイツの国民意識の中に深いところで影響力を宿していると思う。(ヨーロッパでは頻繁にどこかでデモが行われており、市民レベルで哲学が語られている現状は日本では考えられないが、、、)だから「デミアン」のような哲学的な小説が第一次大戦のドイツ敗戦後間もなく出版されて、熱狂的に多くの国民に迎えられたというエピソードがぼくにはドイツらしいと思えた。
 
さて高校の同級生と二人で始めた読書会の2回目を昨日6時間かけて(後半は居酒屋に移って飲み会になるが)行ったのだが、もう一方の友人の方の感想はどうだったかを自分なりにまとめてみたい。彼は長年教師をやっていたこともあるのかもしれないが、もっと本の中身に即して、つまり現実的に感想を述べた。以下記憶のままに列挙してみる。 この小説は大河小説のように、主人公の10歳から20歳までの物語を順序良く書いたものではない。登場人物は主人公の分身のように思えた。(ほぼ、ぼくも同意したがクローマーについては明らかに他者と思える。)デミアンとは4回の出会いがあるが、後半にはリアリズムによる出会いを描いていない。両親や姉たちが属する善の世界と、カイン、グノーシス派、アプラスカスの悪を含む世界の二つの世界が平行して描かれている。デミアンがどのようにしてクローマーをやっつけたのかがなぜ書かれていないのかに疑問を持った。ジンクレールがビストリウスを「古い」と批判したことに反論されなかったくだりが今ひとつ分からなかった。デミアンの母のエヴァとジンクレールの「恋愛」関係の意味(この物語における位置)がつかめなかったこと。戦場で負傷してとなりに寝ていたのがデミアンかどうかわからなくしていてミステリー小説のようにも思えた。、、、他にも細かい感想はあったが、要するにこの小説で君はどう感じたのかと改めてぼくは質問してみたが、よく分からなかったという返事だった。 ぼくの友人は「デミアン」をつかみ損ねていると、チラッと頭に浮かんだがそれを口にはしなかった。
 
読むということは分析ではなくて、追体験なのだということを言いたかったのだが、彼にとっては何が書かれてあるかを分かる方が読んだことになるらしかった。 ついでに書いておくと、グノーシス派などの世界は現状に対する反体制であり、現実には裏の世界としていつも存在しており、覚醒者には両方見えるということ。デミアンとの出会いの神秘性はユング心理学の理論を踏まえていること。デミアンがクローマーをやっつけた場面は、物理的な暴力ではなくて、威圧して恐怖を与えたと考えられること。ビストリウスに古いという批判が効いたのは、彼が過去だけにしか生きていなかったからだと思うこと。エヴァ夫人との恋愛は思春期の女性崇拝感情を肯定することで、自我がバランスがとれて安定する(これもユング心理学の影響)経験を描いていると解釈できること。以上をぼくの方で説明することで彼は概ね納得したようだった。

デミアン」2回目を読了した。2回読むと余裕ができるので読むと同時に味わう感じがあって、やはり1回だけと2回読むのでは体験の質的違いがあった。この小説はこれまでのヘッセ作品とは別格の感じがあって、かなりヘビーな、カミユとかドストエフスキーとはまた違う思想的な作品だった。でもしっかり文学的な文体の香りもあり、世界的な名作であることには違いない。

一言でこの小説の価値を言うとしたら、自我の確立ないし再建というところだと思う。いかに真実の自分になりきれるか、読後しばらく経って漠然と思うのは、ジンクレールがデミアンに到達する物語だったのではないかということだ。デミアンはジンクレールが呼び出した自分の自我だったという解釈が浮かびあがった。読み様によっては第二次大戦の思想的準備をドイツ国民に与えたとも受け取れる部分もかなりあったと思う。

しかしそれは政治的・外面的理解であり、戦争体験が既存ヨーロッパ精神を崩壊させたことの内面化の内面こそ、「体験」とともに理解すべきだと思う。ヘッセは厭世家のイメージがあったが、全く逆で時代と格闘する作家だった。前回読書会で取り上げたサン・テグジュペリや同時代のロマンロランとは違うタイプの大作家と言えるのではないだろうか?

 

 

f:id:hotepoque:20181205094844j:plain

今のところ、ぼくたち二人のイベントである読書会も「星の王子さま」「デミアン」に続き、「グレートギャツビー」と並べてみるとそこに何となく何かを感じさせるものがあるのではないだろうか? 今回取り上げる小説の発刊年が1925年で、前2作がそれぞれ1943年、1919年だから、二つの大戦を抱える時代に書かれたものということになる。19世紀ではなく20世紀前半の世界文学を無意識的に選んでいる。作家の国籍を見てみるとフランス、ドイツ、アメリカになりバランスよく分散された格好だ。

この流れからすると次回はロシアかイギリス、アイルランドか、スペインとしたくなる。 さて「グレートギャツビー」に戻すと、これは「僕」という主人公が「ギャツビー」という偉大な友人について回顧する設定となっており、それは前2作とも共通していることに気づいた。「星の王子さま」は主人公の僕が飛行機の不時着で出会った少年について書いているし、「デミアン」は主人公のジンクレールが過去を振り返り最も影響を受けた人物について書いている。いずれも主人公が自分のことを書こうとして、どうしても自分にとっての最大の重要人物のことを書かざるをえなかったかのようだ。それは小説を書こうとする時の動機の一つを示しているように思える。

このように見てくるとギャツビーというキャラクターを星の王子さまやデミアと比較するという視点がぼくたちの読書会を通じて可能になるわけだ。これはひょっとすると思いもかけない文芸的な楽しみ方を発見したのかもしれないと思う。

サルトルが日本を理解するのに谷崎潤一郎の「細雪」がよかったと来日時に語ったらしいが、そのように小説を読むとして、僕は「グレートギャツビー」を読んでアメリカを理解できたような気がした。アメリカはヨーロッパのような歴史がない分だけ、セレブの世界にギャツビーのような成り上がり者が入っては消えるだけのドラマが演じられる場が許されているのだろうか。

もちろんぼくにそんなことが分かろうはずがないが、全く手の届かない富裕者たちの物語と思って読み始めると意外な出自が途中で明かされていた。運と想像力によって小説にしうる圏内に登場人物がいることにやや親しみを覚えた。(小説にしうるとは読者の追体験が可能な範囲だということだ。)

作者のスコット・フィッツジェラルドでさえ、流行作家となった後あまりの散財から経済的困窮に陥ったことがあったらしい。だからこの小説は必要以上に雲の上の話としなくてもいいかもしれない。前回読書会で「デミアン」を取り上げたが、敗戦国ドイツのアイデンティティ回復の小説が発表された5年後に、戦勝国アメリカの元将校の恋愛事件を描いた「グレートギャツビー」が出版された。このほとんど同時代の二つの小説を読み比べてみると、ドイツとアメリカがあまりにもかけ離れている(格差がある)ことに驚く。とても同時代とは思えないと感想を持ち得たのは、一つの収穫かもしれないと思った。

 

 

f:id:hotepoque:20181205103315j:plain

友人と二人で喫茶「ローレンス」で5回目の読書会をする。選んだ本はこれまで「星の王子さま」「デミアン」「日常生活の冒険」「テンペスト」と続き、今回は「悪魔と神」である。「テンペスト」で初めて戯曲を読み、観客と共有する舞台で演じられることを前提とした文学の味わいを体験して、それならドイツ農民戦争という歴史から材をとった戯曲とはどんなものになるのだろうという興味から、この作品を取り上げることにした。何よりもサルトル自身が最も愛着のある戯曲であると言っているのだから、少々の長さにも耐えて2回読むことにしたのだった。2回読むことで初めてサルトルに近づけた。登場人物に感情移入できるようになるには2回読まなければならなかった。

世界史の授業で16世紀ドイツのルターの宗教改革は習っても、ドイツ農民戦争なんて習ったのかさえほとんど記憶に残っていない。農民が武装して戦い、最終的には10万人の農民が殺されているのだから、百姓一揆しか知らない日本の歴史とは全然規模が違いすぎる。主人公のゲッツは傭兵隊長であり戦争のプロとして後世に名を残すほどの人物なのであるが、その人物がわざと賭けに負けて農民側につくのだ。他にもナスチというパン屋上がりの指導者や敢えて貧乏人と暮らす僧侶も登場して、キリスト教徒として神と対決する思想的な戦いでもあったのだった。ゲッツが占領した領土は農民に与えて一時は「太陽の国」というユートピアをもたらすのだが、無抵抗主義をとった絶対平和主義が周辺の農民蜂起を呼び寄せてしまい「善」は「悪」に汚されてしまう。再びゲッツは悪魔となって戦争のプロに戻り劇は終わる。

どれだけ史実に近いのかよく分からないが、歴史的必然というリアリズムを感じさせる重い演劇だった。NHK大河ドラマのように大衆的に脚色されていないのはもちろんなのだが、現代を生きる我々にもつながりを感じさせるものがあって昔話に終わらないのが芸術性なのかと思われた。

 

 

f:id:hotepoque:20180125174422j:plain

かつて有名であったが今どき絶対読まれないだろうという小説をぼくは好んで読むことにしている。野間宏著「青年の環」がそうだったし、ロマンロランの「ジャンクリストフ」がそうだったし、今回のサルトル著「自由への道」もそうだろう。とにかく今どきの人はこんなに長い小説は最初から読む気力を失うはずだ。ぼくは時代にあえて逆らって現実から遠く離れたところから、いわば身を隠しながら生きるのが好きなのだ。幾分1Q84の天吾に似ているかもしれない。

さて今日サルトルの「自由への道」全4部のうちの1部を読み終わる。これはサルトルを甘く見ていたなと反省させるだけの反道徳的な悪をも引き入れている青春を描いていた。最後に青春が終わって「分別ざかり」が訪れることになるが、追体験しようとするとくたくたに疲れる。しかし読み終わると、「ぼくの」青春が体に戻ってくるような爽快感に浸ることができた。サルトルの文体は肉惑的で繊細で力強かった。ただし平気でウソがつける主人公と自分では追体験にも限界がある。勇気を試すために自分の掌にナイフを刺すこともできない。登場人物のパリに生活する人々の中に入って、あの時代の空気を吸う楽しさは十分味わえた。

年金生活者の生活を余生ととるか、本来の自分への回帰ととるかでせっかくの一回きりのクオリティライフが全く違ったものになる。働くことを免除された環境をぼくは貴族的な、少なくとも精神の貴族の環境として捉えたいと思っている。今読んでいるサルトルの「自由への道」で、主人公マチウの教え子でもある愛人イヴィッチが、マチウから渡された100フラン紙幣をマチウがいなくなってから小さくなるまで破るシーンがあるが、それは彼女がロシア貴族の血を引いているからだった。イヴィッチのようにお金に縛られないのが、年金生活者のいいところなのだからそれを生かさない手はないと思わないだろうか?

ただ精神の貴族はなかなかなれるものではない。まず自分の命の値打ちを知っていなければならない。現代ではなかなかその機会はないが、自分の死ぬべき時をわきまえている必要がある。自分らしい死のゴールをイメージできているということだ。このイヴィッチはナチスドイツとの戦闘下のパリで死ぬことを覚悟して、家出したのだった。ぼくはもはや老人の域に近づこうとする身であり、精神の貴族として今に生きるのはかなりハードルが高い。しかし無謀にもぼくはそれに挑戦したいと思う。

 

 

f:id:hotepoque:20180316211110j:plain

戦前にはプロレタリア文学というのがあり、その代表的作家である小林多喜二の「蟹工船」は2008年に再脚光を浴びて、その年の流行語大賞にノミネートされていたらしい。ぼくにとって小林多喜二特高から受けた拷問の凄さのイメージが強く、小説はなかなか読む気になれなくて今日まで来ている。それにしても日本の国家権力の暴力はどうしてあれほどまでに残虐なのだろうか?隠れキリシタンに対する弾圧の凄まじさや、NHKの「龍馬伝」で見た拷問シーンのリアルさで、ぼくはそこに欧米と異質な残忍性を感じるのだが、、、

それはさておき、井上光晴はぼくにはプロレタリア文学の流れにある作家と思われ、これまでまともに読んでこなかった。長編の「心優しき反逆者たち」は途中で挫折したり、老人ホームが舞台の「パンの家」は親の介護が身近な問題となっていた頃に興味本位に読んだくらいだった。今回友人と読書会をするために読んでみて最初に感じたのは、やや実験的にも思える文体の新しさだった。多分サルトルの「自由への道」を読んで作家として学ぶところがあったのだろうと思った。物語の主展開とはほとんど無関係の端役の登場人物にもちゃんと固有名を与えたり、連想から時空を飛び越えて場面が変わり、それをあえて分離せずに混在させる手法などは、世界文学の文脈に入るように意図されていると思われた。

ところで、なぜこの本を課題本に選んだかについて書いておきたい。これまで読書会で取り上げたのはどちらかというとメジャーな名作と評価されている正統派文学ばかりだったから、飽きが来たこともある。(この作品は芥川賞候補に挙がりながら選考者の眼識の低さから選考されなかったという曰く付きのものだった)

僕の小説読みは追体験だから、どちらかというとこの作品世界には近づきたくなかった。デミアンハムレットやグレートギャツビーは何と言っても欧米人であり、主人公に感情移入してもどこかで自分ではなかった。「地の群れ」には被爆者やエタや朝鮮人部落民や炭鉱労働者や共産党員が登場する。そんな世界には本当は入りたくないのだが、いわゆる社会的底辺に住む人たちに対しても分け隔てなく接するのがぼくの信条でもあるので、そんなことは言っていられないのだった。

いろいろな住民が描かれるがそれらは主人公の宇南親雄の過去にすべて入っており、医師である主人公の診療所という場所を起点としてそこで接する人物との関係を回想することで小説が成り立っている。宇南親雄の出自と生いたち、両親との確執、妻との出会い、患者や健康診断書を作ってもらいに来た少女や肉を売りに来る老婆や仲買人など、多彩な人物はすべて「現在の」診療所という空間から過去に向かうことで、様々な想起が起点に繋ぎ止められているような構造が見て取れる。だからプロレタリア文学当時の小説空間とは違い、重層的多面的となっており、単なるリアリズムを超えて方法意識に基づく構成になっている、現代小説なのであった。

 

 

f:id:hotepoque:20180329172718j:plain f:id:hotepoque:20180329172734j:plain

被爆者個人にはどのような生が営まれるかを20世紀小説形式で描き切った「死の島」を2週間弱で読んだ。(図書館の貸出期限は2週間だった)小説中の現在は昭和29年であるが、それを昭和46年に福永武彦は最後の長編としてこれ以上のものは残せないと本人が述懐したほどの作品を残した。

ぼくは戦前の文学者がおしなべて大政翼賛的に戦争協力した中で、加藤周一中村真一郎福永武彦が世界文学レベルで自らの文学的矜持を失わず戦中を耐え、戦後「1946・文学的考察」をいち早く世に問うた功績を知って、幾分明るい希望を持ったのだった。日本だけが文学的にガラパゴス化したわけではなかった。日本精神なるものにすべて糾合されたわけではなかった。プルーストジョイスカフカにつながる20世紀文学の担い手が、少なくともその水準に自らを維持しえた文学者が日本にもいた事実がぼくには救いだった。「死の島」はそれを証明する作品だと思う。

独身の作家志望の編集者である相馬鼎はプルーストや、ジョイスや、カフカに登場する主人公ほど存在感があるわけではないが、(真実の愛の前にたじろぐ小心者だったり、二人の恋人に公平に接するという観念性など)文学的野心や小説の力に対する信頼には、現代思想に通じるものがあると感じられた。不完全な主人公だからこそリアリズムが保てていると解することもできる。何しろ小説の構造自体は複雑で実験的でもあるので、主人公の不完全さに読者を十分誘い込む必要があったのかもしれない。入り組んではいてもついていくことはできて面白いと感じられるのは、やはり描写が上手いからだろう。深くロマンを堪能できる現代小説は珍しく、この読書体験は人生を豊かにしてくれる。
 

 

f:id:hotepoque:20180604204810j:plain

ぼくが好きなのは非日常だ。日常の惰性や安定を揺るがすちょっとだけ異常な世界だ。星野リゾートにはそれを提供しようとする姿勢があるから好きなのだ。もちろん小説が一番手頃なツールなのだがその提供者にはいろいろ好みがあったり、読者に厳しいか優しいかの違いがある。一番しんどくて時には生死につながりかねない恋愛という非日常は、人生そのものがかかっている。行動派の人だったらお金のかからない旅行を知っていて、手軽に非日常を味わっているかもしれない。ぼくは行動派ではないので、じっとしていても非日常を味わえる詐術を作り出す。

なんと単純であることかとみんな驚くと思うが、それは書くことだ。(それは、村上春樹が英語人格で「風の歌を聴け」を書き始めたことに関係している)

書くときの意識の状態は非日常であり、何を書くかさえ気を付けていれば意識を持続させることができる。意識を自在に操れる詐術というものを手に入れることができれば、ぼくはいつも好きな世界に住むことができる。子供の世界は非日常に溢れている。夢中で遊んでいる時、彼らは非日常に居る。別に詐術を使わなくてよくて、友達がいればいいし、一人でも面白いと感じさえすればいい。

 ちょっと前、ぼくは自分以外の他者を登場させようとして失敗して疲労困憊から眠ってしまっていた。小説には主人公以外に様々な登場人物が存在する。ぼくを主人公とすると結婚していれば妻がいるし、兄弟やいとこがいて父や母が必ずいる。幼稚園から小学校、中学校、高校、大学校へと進む中で接する先生や友達や友達の親がいる。就職すれば会社という場に進み、労働や生産や市場や商品や余剰価値や職場の人間関係などが様々に登場人物を主人公の周りに存在させる。これまでぼくは、かろうじて妻は登場させることができたが、親となるともうダメで、ましてはサラリーマン時代の社長や上司や部下やお客や取引関係の人となると全く登場させる気が無くなる。まだまだ修行が足りないのだろうが、とにかく書き続けることはしたいと思っている。そして何よりも良い作品を読むことが続けられる栄養を与えてくれる。今、坂口安吾の自伝集「風と光と二十の私と・いずこへ」(岩波文庫)を読んで、これまでにない自由感を味わっている。鬱も統合失調症も狂気も自殺も別に気にならなくなるほどの、凄まじい文学修行がクールに書かれてあった。

 

 

f:id:hotepoque:20180728115614j:plain

少しブログへの投稿を休んでいた。自分では書かないが他人のブログはいくつか読んでいた。書くという作業はおしゃべりより面倒くささが伴うので、ブログには書くことがさほど苦痛でない人や自分の立ち位置がしっかりして自分の情報に価値を見出している人が集まることになる。ぼくはといえば書くことで自分が今何を考えているかをはっきりさせるという構え方で、ほとんど書く練習をしているようなものだ。そういえば、最近村上春樹がラジオのディスクジョッキーを始めるらしく、金沢では明後日の月曜日夜7時に聴くことができる。文学の話はほんのちょっとは出るのだろうか?

さて、このブログに書くことはラジオではないが自分で情報発信というステーションを持つと捉えることも可能で、むしろ媒体の機能を意識してマーケティング発想も取り入れるとプロ意識も生まれるのかもしれない。作家やミュージシャンといえども今では何らかのマーケティングをしていることに気づくことがある。ユーミンはもともとマーケティング志向だと思っていたが、平野啓一郎も自分のサイトから「マチネの終わりに」の感想を求めていて、そこに掲載された著名人の感想を本の帯に採用するということをやっていた。

マーケティングとは商人的態度になることだが、つながりを作る技術と思えばやりすぎない程度に取り入れることは良しとしよう。

さて、今ぼくの頭にあるのは「羊と鋼の森」という小説をめぐって、自分の幸せに忠実になることの是非みたいなことを考えてみたいと思ったのだった。「羊と鋼の森」はピアノの調律師の物語だ。こんな幸せな職業が現代にあることに驚いたのだが、まさにニッチをうまく小説の題材に取り上げている。ピアノの音を相手にしていればよく、世の中の雑音は必然的に消される。ピアノを調律する基本となるのが「ラ」の音で、400デシベルぐらいに音叉を使って共振させるのだが、それを哲学科出身のこの作家は、「世界」に漂う潜在的な音ならぬ音と「つなぐ」作業だと表現する。「世界って何だよう」と、主人公の弟に叫ばせているように、ぼくにもこの「世界」という言葉に飛躍を感じた。それにしても随所に成長するには何を学んでいけばいいのかが親切に展開されていて、特に職業選択に直面する学生には最適の小説になっていると思った。ところでぼくには、ピアノ以外の雑音の世界にやはり止まるのが自分の務めだと思ったのである。自分の幸せのためなら自分の見たいものだけを見て、見たくないものは見ないことにして自分の決めた目標に進むことが許されるのか、という問題を考えてみたのだった。そういう人生は確かに幸福かもしれないが、時代(歴史)とともに生きたことにはならないとぼくは思った。

、、、しかしそうはいっても、結局は思い通りの人生など送れるはずもないのだから、小説の中ぐらいは自分の見たいものだけで生きても許されると結論しておこう。