開界録2019

The time I retired from jobs is the period reviewing and comprehending my past life.

読むことと書くこと(総集編)

「利口そうなおしゃべりなんて、ぜんぜん価値がない。ぜんぜんないね。自分というものから離れてゆくばかりだ。分を離れてしまうというのは、罪悪だよ。ぼくたちは、自分の中へかめのこみたいに、すっかりもぐり込むことができなけりゃだめだ。」________________________ ヘルマン・ヘッセデミアン』から 

 

本を読んで過ごすことが退職後の基本的な生活になっているが、それだけでは何となく物足りなさを感じてしまう。しょっちゅう旅行に行けるわけではないし、この歳で一人旅をするのもいざとなると気が引けてしまう。読むというだけでは自分ひとりで終わってしまうので、読んだという事実が限りなく薄くなってしまうのだ。 だから何なの?そんなの別に珍しくとも何ともないし、好きにやっていればと突き放されても仕方がない。

本といってもぼくは小説のことを言っているのだが、この小説が非日常に最も簡単に行ける方法であり、最も安上がりな娯楽であり、何となく自分をみがく鍛錬みたいなところもあって回を重ねれば上達する趣味の要素もある。 映画や絵画やコンサートなど他の芸術、趣味との違いを考えてみると、小説は言葉を使っているために作品との距離が格段に近いような気がする。普通に生活しているだけでも言葉で考え、感じ行動に移すことを繰り返している。それが本を読むという自分の行為によって、作者の作った言葉の流れが非日常の時と場所を作り、登場人物と共に動くことで、感じたり考えたり経験したりするわけだ。

そこに錯覚がある。映画は眺めている。絵画も眺めている。コンサートでは音楽を聴いている。小説では言葉を眺めていても何も起こらない。読むことで言葉から仮の現実空間を自分から想像しなくてはならない。この読むという作業はスポーツと同じでスキルであって、初心者レベルから初級、中級、上級とレベルアップする審級可能な能力なのだと考えたらどうだろう?能力だから国語教育という学科目があるのだが、ぼくはスポーツの方が、トレーニングという必須部分と試合(ゲーム)という本番部分がアナロジーできて、より読書のダイナミズムを構造化できて、例えとしてふさわしい気がする。

ぼくの回りで読書する人が少なくて、スポーツでは仲間ができているのに読書ではなかなか仲間ができなくて困っている。 それは読むという行為が意外と面倒を感じさせてしまっているのではないかと思う。ちょっと長文のメールでさえ、相手に負担をかけるのでよくない行為とみなされている。小説の場合、普通の人の普通の会話やコミュニケーションではなく、感動を与え幾分なりとも読者の心を豊かにさせる効果が、その結末において生じなければならない。 小説も商品の形態をそなえ本屋で売られているのだから、値段に見合うかそれ以上の価値を提供しなければ詐欺になってしまう。

要は本を読む前に本が与える価値が分かっていれば、多少負担を感じる読むという行為も実行に移されるわけだ。小説を読まないという人は小説を読むことで得られる価値の内実や大きさに気づいていないということになる。ぼくにとっては読書はほとんど生きることと同じになっている。そういう人は世の中にたくさんいると思う。ただ自分の見知っているまわりにはあまりいないというだけだ。

あなたは何故読書は生きることとほとんど同じと言えるのか、ちょっと大袈裟だと思うのではないだろうか?何故の答えは、それによって「世界」ができるからというものだ。こう答えると余計に大袈裟になってしまってピンとこないと言われるかもしれない。人間は世界の中で生きている。人間ばかりではなく、あらゆる生物は自身と世界を持っている。ゾウリムシはゾウリムシの世界があり、蝉は蝉の世界を持っていて、タンポポタンポポの世界があり、クジラもイソギンチャクも自身の世界に生きている。

ただ人間には意識があり、自身の内面にも世界を作ることが可能だ。もし今生きている日常の世界が、いやでいやで仕様がないとする。読書は、その日常の世界とは別の非日常の世界をあなたにもたらすことになる。これは小説を読んだ場合だ。では学術書、例えば歴史や哲学書や宗教や心理学の本を読んだ場合はどんな世界が作られるのだろうか?それは人類の知的遺産で言わば考古学的世界だ。無尽蔵ともいえる過去の歴史文献の中から、ある問いに対する答えが見出される。それは歴史をめぐる知的冒険となるだろう。

その場合の冒険とはちょうどタイムマシーンで過去のある事件に遭遇することになり、その「歴史的人間」の役割を自分が引き受けることになることを想定してみればいいだろう。そのようにして想像力を借りて学術書を読むことになれば、どんなに多くのことを学べるだろう。それは上級者の読書法だ。そのようにして例えば「ロシア革命史」や「全体主義の起原」や「危機の二十年」や「弁証法的理性批判」をぼくは読んでみたいと思っている。

 

どんな場合も一人だけ頼りになる最適のガイドがいる。それはその本の著者である。読書三昧という状態に憧れがある。その状態というのはどうすれば訪れるのか?まず、その状態はどういうものか?本に囲まれていて次から次へと本の世界に浸り続けていて、限りなく隙間がない、、、そうだ、いちいち感想など書き出そうとしなくても、面白くて夢中になる状態を保てばいいのだ。ではぼくは何が面白いのか、それを明らかにした方が早道かもしれない。ぼくは自分に関することに興味がある。ナルシスなのかもしれないが、ナルシスと少し距離があるように思う。

自分に興味があるのは、自分に関することだと分かる範囲内にあって、迷惑がかからず、何をしようと自由にできるからだ。他人はまず何を考えているか、たとえどんな質問をして必ず答えてくれるとしてもなお、無限に分からないことが出てくるだろう。自分のことなら実感があるので、よく分かっていると思っている。しかし考えてみると、自分に質問をしても分からないことが出てくるかもしれない。例えば自分とは何かという問いがある。

生きて生活して様々な人間関係を築いていくときに、主体として意識されるものだと一応言えそうである。肉体を持って家をはじめとして一定の空間を占めたり、移動したりするので実体を備えているとも言える。また感情や欲望が湧いてきて感じたことを判断して行動したり、周囲との反応や応答を繰り返して物事が進んでいくような環境にいるという感じがある。改めてそういうことを書いてみると自分が存在しているように思えるが、実際はそれぐらいのことは意識せずほとんど自動的に生起している。無意識になっていることは存在していないことと同じではないか。意識がなくなれば死んでしまうので、意識しないのは死んでいるのと変わらないのではないか。

自分のことはよく分かっていると思っていても自分とは何かと問い始めるとわからなくなるのは、自分について分からないのではなく、何かという問いかけの方が分からないのではないだろうか?それは存在の実質、定義、守備範囲のようなものだろうか?これは明らかに哲学の問題になってきた。そうすると自分は自分と思っていたことが自分から離れていく気がする。しかしこのように考えている自分は考えている間は自分である。たとえ哲学的な問題について考えようと、哲学者になれるわけじゃなく自分のままなのだから、どんなことを哲学的に考えようと無意識な部分につきまとわれようと自分からは逃れようがない。だったらどんなことでも考えていいのではないだろうか?

例えば自分の国について考えてみよう。自分は生まれてこのかた日本の国民ということになっている。国とは何かはよくわからないところがある。知識が足りないのだ。国民というのがよくわからない。住民なら分かる。住むということが具体的にどういうことか分かるからだ。しかし国民は住んでいるが住むこと以上のことをしている。例えば18歳以上は選挙権があるから投票に行く。国が戦争状態になったら戦争に行かなくてはならなくなる。自分では戦争はしたくないと思っていても、国民だったら戦争しなくてはならないのだろうか?戦争したくない場合、国民にならなければいいのだろうか?現実には考えにくいが、もし自分が日本国籍を放棄すれば戦争もしなくていいということになるのだろうか?

ここまで考えている自分は自分であるから、ある意味自分の考えについて考えているだけだから問題はないはずだ。もっと考えを進めてみよう。自分が日本国籍を離脱するとどうなるのか、これも知識が不足している。でもその際のリスクについては勉強して知識を得ておく必要がある気がする。自分が生きている間に自国に戦争が起こることはないかもしれないが、ないと言い切れないので具体的にシュミレーションしておくことは意味があると思う。

 

文章を書くことでぼくは何かを達成させたいと考えている。ぼくが自由に息をし、考えまたは想像し、記録し論評するような場所を書くことで確保したい。自由にというのは、今という現実の生活とか地位に関係なく遮断されてということだ。ぼくは「そこ」では何にでもなれるし、どこからでも始められる。例えば、スペイン旅行記から始めてもよいし、今気に懸かっていることをとりあえず整理して片付けるのでもいいし、ここ一ヶ月を振り返って新たに得た、本を読んでの着想でもいい。これまでぼくはそれらを「日記」(毎日ではないので日記とはいえないが)という文章形式で気ままに書いてきた。それは書き留めることでぼくという存在が文章に対象化され、その対象化された自分に逢いにいくことをしていたのかもしれない。今書こうとしているのは、「気まま」ではなく、「達成」である。

つまり将来に備えた準備やひとつの向上心を育てようとする意図がある。そうだ、ぼくは書く能力をつけ書くことを習慣にしたいのだ。例えば今読書が生活の中心になっているが、読書だけでは絶対に行き詰まるだろうし、書くことをしなければ世界が広がっていかないという確信がある。今から書くことを習慣化してどの程度将来に備えられるか試してみたいというのが、これまでの日記での書く作業との違いである。 だがこれまでの日記でも、書いてきていることで実は既に達成されていることがある。一つは自分の文体というものができている。文体とは一番書きやすく、書いたものを自分が読んでしっくりする文章形式のことだ。

言わばテンプレートであり、いつでも書き続けられる書くことの再現性を保証するものだ。二つ目は、書くことが自由をもたらす感じを既に味わったということだ。書くことが意識に変化を与え、大げさになってしまうが周りの景色を変えてしまう実感が得られる。色がやや鮮明になり、音もしっかり聞こえるようになる。実はさっき、先の段落までの文章を書いた後、車を運転してその景色の変化を体感してきたところだ。三つ目は、当たり前のことだが自分がそれを読むことができるということである。自分が書いたものを読めることで自分ってこういう奴なんだというイメージを持つことができる。

それをブログなんかに載せれば、自分だけでなく誰かが読んでくれて筆者について好悪の印象を伝えることになる。これは書き続けることで一層確かな印象を形作ることになる。しかし一番大切なのは書く事が楽しいという感覚だろう。この感覚を自分は誰かに伝えたいと思う。同じ感覚を持つ人と出会えたり、自分もその感覚を味わいたくなって書いてみようとする人と出会いたいと思う。この思いつきが生まれたきっかけは、斉藤孝の「書く力」という本と出会ったからだ。書くことで意識の空間ができるので書き出していくと、次第に自分が膨らんできて自分がそこで息を吸うようになる。息を吸い始めると生きている感じが生まれてきて、考えることもできるようになる。

そうだ、書きながら考えるやり方が最近身についてきた気がする。書いたものの中に自分を置いて、その自分と対話するために書き始めるのだ。ぼくが書くことに関心があるのは、書くことで自分がはじめて存在できると考えているからだ。書かないうちはただ生きているだけという状態であり、ぼくはその状態のままでいることに耐えられないと思っているからだ。他人のことは本当はわからない。書かないで当たり前に家族や友人に取り囲まれて幸せに暮らしている人たちがいるとは思うが、その人たちと自分を区別したりしたいわけではない。ただ自分を書いたものの中に存在させることの独特な感じに、得難い快楽のようなものがありそれを失いたくないと思っているのだ。

ではどうすれば書いたものの中に自分を存在させることができるだろうか、それは書くことで自動的についてくることなのか、意識的に作り出すことなのか、どんなことを書いても実現することなのかといった問題がある。書いたものの中に自分を存在させるというのは、無意識になっていることの中には存在させられないのではないか、と思うのだ。なぜならそこで生きていないから。生き生きと存在させなければ書いたものの中に自分は存在できないし、独特な感じもない。

 今日目覚めのまどろみの中から思考力が立ち上がってくるとき、次第にブログの事が気になっていることに気づいてきた。昨日ぼくのブログのアクセスが2件だった。アクセスが何も投稿しなければゼロになることが予想される。別に読んでくれる人のために書くわけではないのだから、ゼロになっても書きたければ書くので構わないのだけれど、なぜか気になるのは読んでくれることを期待していることになる。やはり読まれることを前提にしているのは確かだ。

ぼくは妻にブログを書いていることは伝えている。でもそれを読もうとはしない。そもそも本はほとんど読まない人であるし、ぼくの書いたものを読むのもめんどくさいのだろうと思う。ブログを書く理由とか書いて何が得られるのかは、多分よくわからないのではないかと思う。ぼくもそれを聞き質すことまでしようとは思わない。ただパソコンに向かっているのをぼくのかけがえのない趣味ぐらいには考えてくれている。1年前あることで妻を心底怒らせた時、携帯とハードディスクは破壊されたがパソコンは破壊を免れた。こんなことまでついに書いてしまって自分が無防備になっていくような気がするが、書き続けるということはそういうことなのかもしれない、、、

このブログには一人だけ現実世界の他者が登場しているのだが、彼には友人としてこのブログのURLを教えている。でもその友人もあまりぼくの書いたものには興味がないらしい。メールのやり取りはするが、いわゆるパソコン嫌いの部類に入る年齢ではあるのだ。(ぼくはどちらかというとパソコンおたくで昔はリナックスで遊んでいたくらいだが、同年輩では珍しいみたいだ)とにかくブログでは知り合いがいないという環境を持つことができていて、知らない他人だけがネットで繋がっている世界が自分には心地いいのだ。

現実のぼくを知る人が誰もいないところで、日頃の自分とはちょっと違う人格を表現してみることの快感を書くことで経験しているわけだ。ところで今朝まどろみの中で感じていたのは、この素の自分を知らない他人と、自分の書いたものを中心にゆるく繋がっているブログ環境というものの存在感なのであった。静かで宇宙のような冷たさはあるが、エレルギーと運動はあって未知との遭遇という存在を賭けた冒険がある(らしく感じる。)その空間をもっと十全に感じてみよう。誰も知らない知られていないからこそ、(いつも先の方にあって)書きたくなる創造的な空間のことを。 

 

自分を題材にして文章を書くことに何かがあると思っていて、それは自分が考え続ける場所というものを作ることのような気がして、そのために書き続ける習慣を持つのがブログを始める動機だった。とにかくある程度のボリュームで書き続けることが必要なのだ。昨日はそれに失敗して途中でどうにも書く力が湧いてこなくなることが起こった。書いた文章に自分の手触りのような感触がなく、書く動作に自分を乗せるというか同期させることができなかった。書くことにもノリが必要なのだ。

昨日、小松左京の「日本沈没」を読書会に採り上げる約束を友人としていてその準備に考えあぐねていた。これも小説でSF小説と言われているけれど、でもそれは文学かと問うてみるとどこに文学としての芸術性があるのかと思うと急に書く気力を失ったのだった。ぼくは結局芸術性という曖昧な、しかし強烈な想像空間がたまらなく好きで、小松左京の「日本沈没」にはそれがなかった。小説という形式にはどんなことでも入れられるので、企業小説や経済小説という分野もあり、小説イコール芸術ではないのだろう。「事実は小説より奇なり」という諺があるように、事実や事件や歴史的な出来事を人に伝え、何か意味深い物語にするというのは小説に古来から求められていたことに気づく。ただ、それは小説とは呼ばずに小話や説話や物語と呼んで区別されていると思う。

そういえば近代的な小説らしい小説は、夏目漱石によって創造されたということをどこかで読んだ。、、、ここまで書いてきてある程度のボリュームになった。この小さな達成感にいつも安心してしまってここらでブログにアップしようかとなるのだが、今日はもっと粘ってみようと思う。これまでと違って安易な妥協はしないと自分に言いつける。そうすると少しばかり成長するかもしれないと希望が湧いてきて、頑張るのだ。そうやって自分を成長させるのがこの「定年後の文学人生」なのだ。、、、

と、オチがつくとまたここらでやめたくなるのだが、それも今日はやめずに書き続けよう。さてようやく今日書くことのスタートにつけたような気になった。ぼくは現在65歳だ。石川県の金沢市の隣の野々市市というところに23年前に金沢から転入し、家を建てて住んでいる。3歳下の妻がいて子供はいない。年金生活者だ。ただ多くの年金生活者の同輩とやや違うのは仕事もボランティアも地域活動もせず、本を読むことを日課としてテニスで健康を維持し読書会で地域とつながっている。ここまでを最低限の生活として退職後4年かけて確保してきた。

 

今、築23年の自宅の一部をリニューアルしている。浴室、洗面所、外壁と玄関ドア、屋根を新しくした。1階のリビングにもようやくエアコンを入れて、出窓を普通の窓に戻し機密性を高め、結露対策をした。近所に母が一人で住んでいて、買い物や病院通いに付き合っている。以上がぼくの外的環境だ。これと同時に文学的、というのは内的実存的、環境を記述してみる。まずサラリーマンという被支配関係からは解放されてまるで学生時代に戻ったような自由な気分を取り戻している。自由なということは孤独でもあるし、無名の存在でもあってまだ生涯を掛けるような仕事にも出合っていない、無力感とも戦わなくてはならない。退職後はまず自分と同年代の作家の小説を読むことにした。主に読んだのは村上春樹でぼくの4歳年上になる。同年代を意識した女性作家では桐野夏生(2歳上)がいて「抱く女」と「夜の谷を行く」を読んだ。村上龍の「69」も読んだ。現代史の特異点である1968年からその名残りの1972年あたりがぼくの青春の時期でもあるので、その頃の今からすると奇跡のような「雰囲気」を自分の内面に再現しようとする欲望がある。以上が内的実存的環境だ。

内外の環境はそうだけれど、書くことでこれからぼくに作り出される環境というものについても考えてみる。その環境は拡張か、転移か、交代か、漂流か、進化か、深化か、それとも退却か、縮小か、断絶か?思い描いてみると深化と漂流に気が向くようだ。気ままに暮らしたいがどこかに芯となるところへ向かいたいとも感じる。文学でいうと古典の世界だ。ゲーテの「ファウスト」、ダンテの「神曲」、紫式部の「源氏物語」、、、これらの古典をこれから読むとして書く方は何を書いていくのか?ぼくはいつ頃からかよくつかめていないが、日本人の一人として原子爆弾による被害をどう受け止めるのかぐらいは義務として自分に課すようになっていた。そういう発想で、戦争そのものや戦争に導かれる状況についての関心や、戦争を起こす国家というものに向き合う個人的立場で何が可能であるかなどに関心がある。書くとしたら個人の可能性ということになるが、具体的に個人の可能性のどこに焦点を合わせるかは分からない。

ぼくがサラリーマンだった頃の上司の一人に、よく本を読んでいる人がいて割と話が合う方なので相談などもしていたのだが、文章を書くのは全くダメということであった。ぼくにとっては本をたくさん読んでいれば語彙が豊かになって、書くのにも困らないと思っていたから意外な感じがしていた。書くという行為には読むのとは違う何かが必要なのだろうか?そこで、書くのと読むのでは何が違うか、思いつくままに述べてみることにしよう。書く時には自分の知っていることしか書けないが、読む時は何でも読むことができる。自分のことは棚に上げて、興味の赴くままに果てしなく読むことができるように思われる。

書く行為には詩や小説や戯曲のように創作という、形に磨き上げることができるが、読む行為にはそのような形式がない。読むのは表現でなく、外に現れない。誰かが机の前で本を熱心に読んでいるのをぼくが見たとしても、本の中身をどのようにして読んでいるかわからない。単なる時間つぶしとして村上春樹の小説を読んでいるのか、その小説の中に引き込まれるように感情を動かされながら読んでいるのか、側からでは分からない。読書の後で感想を書いて初めてどのように読んだかがわかる。

これはどういうことを意味するのだろうか?ぼくが今気づいたことはちょっと常識外れかもしれないが、読んだだけでは存在せず書いて初めて存在する、というものだ。本を読んでいる間の意識の動きや働きはそのままでは存在できなくて、書くことで意識が働いたことがわかると考えられないだろうか?ただ意識が働くだけなら、脳波を測ればいいのだろうが、意識の内容は言葉でしか表せないのではないだろうか?しかし、ここで書かなくても意識している内容が確かに分かる状態があることに気づいた。

それは、つぶやいている状態だ。表に出さずに心の中でつぶやいている時は何をつぶやいているか自分には分かる。でもそれは他人には分からないのだ。よく眠れない時、だんだん意識がはっきりしてきて頭の中で色々考えを巡らせていることがあるが、その時はつぶやいているのと同じだ。確かにその時考えている内容は分かっている。が、しかし目覚めると全く何をつぶやいていたのか忘れてしまっている。しばらくは記憶しているかもしれないが、数日すれば書いてない限り確実に忘れている、、、そのつぶやきは果たして存在していたのか。意識というものは忘れてしまっては、存在しなかったと同じことになるのではないだろうか?ああ、読むことの不確かさにはもっと注意を向けるべきではないだろうか? 先に読むことについて書いたが、読むという行為の本質を微妙に外していたように思った。

読むことについては何を読んだかを経験として分析しないことには、読む行為を説明したことにならない。単に小説を読む場合だけでなく、例えば政治情勢や相手の心を読むという場合のように書かれた文章以外にも、読むという表現を使うからである。しかし、その場合も本を読む行為の比喩として使われているような気がする。本質はやはり本を読んでいる時の、読む行為を読むというのだと思われる。ここ3ヶ月の間にぼくは連続して村上春樹の小説を読んできた。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」と「ダンス・ダンス・ダンス」と「国境の南、太陽の西」と「アフターダーク」をまだ読んでなかったと思って読んだ。(それは38年間サラリーマン生活をしてきて失った自分を取り戻す作業の一つでもある。)読む行為を具体的に分析するのにこの時の読んだ感じを思い出しながらやったほうがリアル感が出そうだと思う。

例えば「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」を読んだ時に、これが「ノルウェイの森」の前に書かれていたことに少し驚いた記憶がある。「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」が小説として新しいと感じたからだ。「ノルウェイの森」のヒットによって一躍誰もが知る作家になったが、それまではマイナーなというか、村上春樹村上龍を比較するような小説好きな人々の範囲にいた。ベストセラーの「ノルウェイの森」の印象から、いわば通俗小説として受け取っていた面もあるので、その前に「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」のような複雑な構造を持った挑戦的な小説を書いているとは思わなかった、というのが正直な感想だった。

ノルウェイの森」のヒットについて村上春樹は、発行部数が100万を超えると1、2万の頃の読まれ方と違ってくるので、逆に読者との親密な関係が壊れて孤独になる、という意味のことを語っていたが、そのことも読むという行為に関わる問題のように思える。作家が書いて伝えたいと思うメッセージが読者が100万も出来てしまうと伝わらないと村上春樹は考えているようだ。つまり、読むべきなのはメッセージなのだ。作家が長い長い時間をかけて身を削るように書いていく文章を読むことは、作者のメッセージを読み取ることであって、感動しただけではまだ十分ではないということだと思う。

ぼくにとってこの4作からメッセージを読み取るとしたら、自分の固有の物語を発見して逃げずに(死んだ人の人生も引き受けて)タフに生きろという励ましだと思われる。 今分析しようとしていることは、読むという行為の本質を小説を読んだ経験からリアルに検証して、何を読んだのかをみることだった。まず当たり前のことだが、読むときは対象が物理的にはっきりしている。つまり本というモノで、中身は今の場合小説であり、小説家が書いたものを読むことになる。書く場合には何を書くか明確になっていない場合もある。書いているうちにはっきりしてくるという場合もある。小説を読む場合、すでに作者と特定の小説がはっきり選ばれている。そして多くの場合、その小説は他人によってすでに読まれていて、読者という相当多くの人の層ができている。

ぼくが読む場合、その読者層に参加することになるわけだ。書く場合には参加するという意識はないが、本当は何かに参加しているのかもしれない。それはともかく、読むのはすでに作者によって完成されて、考え抜かれ構築された文章を読むことになる。小説の場合自由な形式ではあるが、それでも一定の枠内にあり多くの場合読まれやすいように配慮して書かれている。最初の書き出しから、興味を持たせて最後まで読むように促されている。それは言わば親切心がなければできないことだ。もちろん小説家はプロであるからプロ意識で書いているに過ぎないが、他者に働きかけようとする意欲がなければ進まないだろうと思える。

読んでいるとき意識はしていないが、作者に励まされている力を感じなくもない。そうだ、力が作られて読むことによって自分の中に再現されるのだ。多くの読者がいたり、古典となって読み継がれるのは、作者の創造した力が大きく強いのだ。さて、読むのと書くのとの違いはあくまで小説家ではない自分の場合ではあるが、読む場合は作者の完成された構築物を吸収するのに対して、書くのは読者を特に意識せず、自分の中にある未構築の、形になる以前の意識のカオスを文章に出力することのように思われる。したがって、個人が何を書くかがない場合は、作家の書いた小説が何を書こうとしたかを読み取り、それを参考にして書き始めるという順序になると思われる。

ぼくはどういう視点から書くかの存在論を問うてみたいと最近考えるようになっている。それは書くという行為には何か哲学的な課題がありそうだと思っているし、文芸評論や時事的な考えを情報発信する行為とは違う、もっと誰でもが本来することが求められるような行為として、多くの日本人が自分を語るようになってほしいという期待もどこかにある。文筆を職業とする人たちの書くことではなく、素人で書くことの内容が定説や通説と合っているかどうかとか、特定の世論に与するものかどうかなどの視点ではなく、自分を自立した個人として成り立たせるために書くという視点を問題にしたいのだ。

自立とはどういうことか、抽象的な世界で自分を持つということも含まれているし、歴史的、社会的に要請される判断について(例えば憲法についてとか、人権や主権にかかわる問題とか、公教育にかかわる問題とか)自分の考えを持つということも含まれる。要するに職業的利害関係から離れて個人の資格で、無名であることや無力感に抗しながら、どこに自分の存在を位置付けるかという問題なのである。これはやはり哲学上の課題であるのではないだろうか?必ずしも哲学のプロの人たちの課題ではないのかもしれないが、一人一人の個人にとって切実な課題だと思う。

さっき車の中でFMラジオを聞いていると、ユーミンがゲストとなって例のアルバムについて語っていた。長寿ならではのコンサートツアーをやると、ぼくと同い歳のユーミンならではのコメントを語っていた。最後に「あなたにとって挑戦とは」の問いに対して「毎日です」と答え、「Mですか」というと「Mですよ、でもそれは自分に対するSでもある」と応じていた。作詞もするだけあって知性を感じさせる応答だった。それはぼくたちの時代だからこそというのもある、とぼくは心の中でつぶやいた。 ぼくには非現実を求める病みがたい欲求があると以前のブログに書いたが、それは冒険や恋愛に似ているかもしれない。その場合現実化するにはいろいろと準備したり、ふさわしい相手が必要になる。

例えばひとり旅に出るとか、異性と出会う場所を探して行動しなければならない。その行動にはリスクがともなう。かなり面倒臭いことも覚悟しなければならないだろう。一番のハードルはどんなことでも動くことはお金がともなうということだ。でも手っ取り早く冒険や恋愛を楽しめる「装置」がある。それが小説を読むことなのであるが、読みが深いほど自分自身の過去の経験の海にはまり込んでもがき、悔恨や懺悔や認識や勇気をかいくぐってくるのである。深い海から這い上がってきた時の爽快感は何物にも代えがたく、どんな現実的な快楽にも劣らないというよりはそれと別種の感動をもたらす。

これを書く前に本当は小林秀雄(「読書について」は読んでみたいと思った)や平野啓一郎(「スロー・リーディングの実践」は半分ほど読んだ)の「読書論」を読んで、読書という行為の全体をつかんで自分の論を書くべきと考えていたが、そうすると読書そのものの切実感やおもしろ味から遠ざかる気がして、まず自分の読書から得ている感じを書き留めておきたかった。ぼくが小学生だった時に読書感想文を書くのは苦手だったように思う。いやそればかりか、作文そのものがどう書いていいか分からなかった記憶がかすかにある。夏休みの日記なら一日をどう過ごしたかを順番に書くか、一つの出来事について書けば良いのであまり悩まなかった。でも作文になると自分がどうしてそうしたかや、感じたことや、子供らしい考え方を書かねばならないというプレッシャーを感じた。何かが必要で、それはぼくという人間が書いたものの中に登場しなければならなかった。ぼくは生来シャイだったから、その時もぼくは、、、と書き出すのがとても恥ずかしいことのように感じたのかもしれなかった。

いったいこんな事を思ったのかどうかも怪しいのに、書くのはためらわれたのだ。本当は書くことによって思うことが確かになるのだ、ということには気づけるはずもなかった。ぼくの周りにはぼくみたいにブログに何かを書き付けるような人はいない。FBに短いコメントを書いて、プライベートな写真を平気で掲載する人はいっぱいいるのに、どうしてか分からないが、ぼくはとか私は、、、というふうに書き出すことはしないのだ。世界に向かってとはいかなくても、世界の片隅でぼくはこう思う、と書かないのはいったい何が邪魔しているのだろうか?(それはひょっとして個人が確立していないことではないだろうか?) 

書くことによって自由感が広がるのをちょうどみぞおちの辺りで感じている。この感じはつい最近訪れた。ずうっと過去の方に回想を続けていて、意識に蘇った量がある水準を超えて質的な変化を起こしたのかもしれない。夢の中の自在感のような、浮遊するイメージとともにある種の感情が同期している。サルトルは存在がむき出しに自在するイメージを「嘔吐」という生理的な反応に対応させたが、ぼくはすべてを内在する想像的存在に取り込む(対応させる)ことによって、存在が明け始める感じをつかんだ気がした。

その力が自分に備わってくるのが分かって自由感を感じたのだと思う。現在と過去の二元世界のうち、これまでずっと現在の現実世界が他者に支配されていて閉塞感を味わっていた。だから現実否定が常態であり、過去の方に向かっていく方がむしろ充実感を味わえた。ところがこれが今逆転しつつある。過去が断絶されることで現在が元に戻って生き始めた感じを書き留めようと思った。青春に帰るのは若々しさを取り戻すことだと思っていたが、実はそうではなく現実を狭めることだと気付いた。現在が軽く扱われることで今開いている現実に気付かなくなってしまうことで、むしろ老いを深めているのだ。

若さとはあくまでチャレンジする姿勢を保ち育てることにあるはずだ。もし過去が意味を持つとしたら、チャレンジしていた頃を再現することにあるはずだ。瑞々しい知識欲を実在する地点に向ける必要がある。実在する場所でぼくの感性が振動して、古い殻を落とせるかもしれない。そういう実験が意味あることだ。 ぼくは自分の書いた文章を読んで同じような調子が感じられるのを確認して、自分らしさがそこにあるのに満足を覚えていた。これは他人じゃなく自分の書いたものだと認めるのは個性なのだと思っていた。ところが、今日突然に同じような調子なのは成長していないからで、限界に立ち止まっていることじゃないかと疑問が湧いてきた。

心の感じるままにとか、ある発見に至る出来事を振り返って再現することを書く技術だと思ってとにかく書いてきたが、書いている自分は全く変わっていないかもしれないと思うと、急に気が抜けてしまった。小説家の書いたものは変化があり、作品にはある到達点が必ずある。創造することで書く主体が生まれ変わっているのだ。追体験ではなく、体験しなければならないのだ。自分が体験する世界を書く必要があるのだ。本を読んでいる自分ではなく、本を書いている自分が創造されなければならないと気づいた。そうだ、創造すればいいのだ。