開界録2019

The time I retired from jobs is the period reviewing and comprehending my past life.

今日を生きたか?

今日という区切られた偶然の1日をどう生きたか、という問題を設定してみたいと思う。何も特別なことがなく、目的からの1段階としてノルマ的な実施項目というものもなく、ただあったことだけは確かな、ごく普通の1日というものを考えてみたい。もしぼくの生命が限られてあることが痛切に感じられる客観的事実があれば、その1日はかけがえのないものになるはずだ。ぼくはとりあえずいつ死ぬかは意識しないで過ごせている。しかしこの一日を特別な1日という意図を持って書くという行為をやろうと試みた小説家の作品が存在することで、限りなく意識を働かせば特別な1日が存在したかもしれないという了解がある。ただぼくはジョイスのような能力がないというだけだ。だけどその知識があることで、今日という1日の可能的存在性がぼくには何となくわかるというアドバンテイジがある。

さてその1日は、どのように描きうるか。今日は12月11日だった。一昨日は晴れてこの日を外すとタイヤ交換がしにくくなると思って妻と2台分1時間半ぐらいかけて、二人でやった。昨日は午後テニス教室に行き、夕方に井上ひさし原作の「マンザナ、我が町」という劇を鑑賞した。今日は丸谷才一の「笹まくら」を少し読み進め、自分のサラリーマン時代のあるシーンが思い出されて嫌になりやめた。今日特筆すべきはこのことかもしれない。「笹まくら」は徴兵忌避した人の逃亡的な生活を描いたもので、負い目を抱える人の抑圧的な心に感染したのかもしれなかった。こんな読書に実はかなり考え込んでしまい、もう小説読みはしばらく中止しようと思ったくらいだった。負い目があると自信を失い、マイナス志向になってどんどん落ち込むのが、ぼくのような性向をもつ人間の自然な流れだ。何でも村上春樹を持ち出すのもどうかと思うが、彼の小説を読んでも落ち込まずどちらかというと読後元気になる。否定的に書くか、肯定的に書くかの違いなのだろうか?

その後全く久しぶりにサルトルの「存在と無」を少し読む。ややこしい「ある」と意識の厳密な分析についていくと、気分が晴れていくのを感じた。小説で汚された意識が綺麗に洗い流されたような感じがした。文学か哲学か、今日はそんな他愛もない選択を考えて、哲学書をとにかく一冊読み終えるというかつての目標を実行しようと決意した日だった。

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