開界録2019

The time I retired from jobs is the period reviewing and comprehending my past life.

転換し始めた意識(総集編)

これまで書く動機を支えていた主体形成の始源への回想がしぼんでしまった。それは定年後の自分の否定から遡って原因を探るものだったが、現在を肯定してもいいのではないかと考え始めたことと軌を一にしている。またそれは学生運動から切れることはあっても、世界観は受け継ごうと思っていることに変化が生じてしまったことも影響している。人間が作り出したものより人間そのものの方が優先するヒューマニズムに生きるべきではないかと考え始めている。芸術より実生活の方が何倍も大切であり、現在の方が過去より何倍も重要であり、一人でいる自分より友人や妻と一緒にいる自分の方が何倍も大事である。

平凡で退屈なこともある日常の、現前しない環境の中に、かけがえのないものが潜在しているのを感じる想像力を磨き続けること。

要するにすべては現在のために過去のあらゆるものがあるのだ。現在を充実して生きるために、芸術があり、たとえ不幸や危機に陥ることがあっても、その表現がいかに巧みであってもそこから魂で回復してくる過程の方に、芸術の価値があるとするのが真であるように感じられる。

書くことによって自由感が広がるのをちょうどみぞおちの辺りで感じている。この感じはつい最近訪れた。ずうっと過去の方に回想を続けていて、意識に蘇った量がある水準を超えて質的な変化を起こしたのかもしれない。夢の中の自在感のような、浮遊するイメージとともにある種の感情が同期している。サルトルは存在がむき出しに自在するイメージを「嘔吐」という生理的な反応に対応させたが、ぼくはすべてを内在する想像的存在に取り込む(対応させる)ことによって、存在が明け始める感じをつかんだ気がした。その力が自分に備わってくるのが分かって自由感を感じたのだと思う。

現在と過去の二元世界のうち、これまでずっと現在の現実世界が他者に支配されていて閉塞感を味わっていた。だから現実否定が常態であり、過去の方に向かっていく方がむしろ充実感を味わえた。

ところがこれが今逆転しつつある。過去が断絶されることで現在が元に戻って生き始めた感じを書き留めようと思った。青春に帰るのは若々しさを取り戻すことだと思っていたが、実はそうではなく現実を狭めることだと気付いた。現在が軽く扱われることで今開いている現実に気付かなくなってしまうことで、むしろ老いを深めているのだ。若さとはあくまでチャレンジする姿勢を保ち育てることにあるはずだ。もし過去が意味を持つとしたら、チャレンジしていた頃を再現することにあるはずだ。

瑞々しい知識欲を実在する地点に向ける必要がある。実在する場所でぼくの感性が振動して、古い殻を落とせるかもしれない。そういう実験が意味あることだ。

どうしても飽きがくる時、嫌が応にも前進させられる。あるいは別のどこかへと移らされる。そうしないと活力が失われるように人間の心は出来ている。かつて何回も聴き込んでいた歌をある時ふと耳にして、ああこれはもう自分の中では終わっていると感じられる時、それが今なのだが、前進か転移を促される。その歌にどうして飽きが来たのか、その歌に共感していたフィーリングがどのように変化しようとしているのか?

おそらく青春の頃に帰って「叫んでいる」状態に何か創造性を失わせるものがあるらしい。だが年をとった現実に戻ったのではない。ただ若い頃のように叫んでばかりいては現実は動かないことに気づいたのであり、その先に行くことが求められているのだ。そうだ、破壊であり、ディストラクションだ。若い頃に帰って自分を取り戻すという枠組み自体を脱構築しなければならない。

就職して社会に出るとき、ぼくは学生身分で培ってきた自由に属する価値観を捨て去ることにした。38年間のサラリーマン生活から離脱したとき、もう一度学生身分の価値観を取り戻そうとして、文学世界に仮想的に生きてみた。そして今、その目論見の脱構築を試みたくなったのだ。

文学の世界では人生を二度生きることができる。想像力を働かせて実際の人生とは違う歩み方を書くことで作り出すことができる。小説のように芸術の域にいかなくても、例えば自伝のようなものは書けるはずで、必ずしも事実の羅列に終わらないとすれば書く視点の創造だけはあるはずである。その視点は二度目の人生を作り出す地点になっているはずではないだろうか?

そうだ、この流れ(書く視点を見つけるまでの意識の流れ)を忠実に辿り続けていけば「オリジナルの世界を作る」壁は越えられそうだ。

叫ぶのは中にあるものを吐き出す方法がそれ以外にないからだ。青春のあの頃ぼくの中には何があったのだろうか?むしろ何もなくて叫ぶことさえもなかったのではないか?あの頃未来は閉ざされていた気がする。あらかじめ失われた青春という映画があったように記憶しているが、何もない青春の後は、誰かと同じようなすでに過去化された未来しかなかった。青春か、然らずんば死か、というのがぼくらの時代の基調であり自死する若者も珍しくなかった。ちょうど村上春樹の「ノルウェイの森」や、ユーミンの「ひこうき雲」のように。サルトルの「自由への道」のイヴィッチのように、田舎に戻って結婚することが死であった時代だった。