彷徨える初期高齢者

苦しみもがいて、62歳からの生き方を探すことに必死になる。誰でもない自分の人生として。

問うこと

昨日のブログでぼくはこのように書いていた。

平凡で退屈なこともある日常の、現前しない環境の中に、かけがえのないものが潜在しているのを感じる想像力を磨き続けること。

しかし、どうやってそれを実行するのかが書かれていない。何事も実行されなければ絵に描いた餅だ。アベチャンがプーチン北方領土に米軍基地は作らせないと約束しても、その手段がなければ実行されないとプーチンがいうのはもっともなことだ。だから手段が重要なのだ。ぼくのこの問題の場合、手段はまさか瞑想によってではありえない。

答えは問うことだ。自分に対してどのような質問をするかで実行の扉が開かれる。それはスフィンクスがピラミッドの前に立ちふさがり質問を発することに似ている。うまく質問に答えられたものだけが、通ることを許される。つまり「門」が開かれるのだ。

もう少しぼくの書いていることを噛み砕いてみよう。現前しないということは、まだ意識化されていない、自分にとっては「外」のことを言っている。今自分の外はどうなっているかを見なければいけないと言っている。その時自分は「他者」になっているはずだ。「他者」になるには客観的にものを見ればいいのか?自分のことは置いといて、ということだろうか?でもそんなことができるものかを厳密に考えるところから、現象学は出発したはずだ。他者になることはサルトルによれば「死」を意味していた。他者になることは「その他大勢」に入ってしまうことだ。無名であることに耐えられるようになることだ。ぼくはやはりそうなりたくない。

ここからややずれていくのを自覚してのことだが、「その他大勢」から脱出する仕方の方に話を進めてみたい。つまり書きたいという気持ちに従う。そのための拠り所は、少しだけ自分が上手にできることに注目する、ということだと思う。ぼくの場合は、書くこととテニスだ。もちろんぼくより上手い人は大勢いることは分かっている。ただ自分の現在の周りでは、少しだけ上手にできていると客観的に思える。