開界録2019

The time I retired from jobs is the period reviewing and comprehending my past life.

友人を失ったかもしれない

文学、といっても小説のことをどう捉えるかで、ぼくと彼は違っていた。その違いはこれまで何ら問題とはならなかった。それがつい最近お互いがもう受け入れがたいほどまでに距離を置くことになるとは全く想像していなかった。最初は小さなほんとに趣味の違いぐらいのことだったのに、どうして決定的な問題までに進んだのか、それが明確になるまで随分時間がかかった。といってもぼくの側だけに進行しただけかも分からず、お互いどうなのかを改めて確かめる気も起こらないのだった。

小さなことか、大きなことかは小説にかける愛というかこだわりの深さに関係している。きっかけは彼が金沢文芸館で主催している小説創作教室に通って、初めての自作小説を書き上げ、それをぼくが頼んで見せてもらったことから始まった。

 彼にとって小説は自己表現なのだが、その自己をあまり追求することなく正当化する手段として使っているようにぼくは感じた。そしてそれをその通り感想として伝えてしまったのだ。彼は高校の教師として、ぼくがサラリーマンとして過ごした期間を幾分かの葛藤を抱きながらその職業人生を全うしていた。小説はその高校という職場が設定されていた。学校と家庭とどこかの出版社とバスの中とどこかの高速道路の駐車場などが場面として出てくる。

小説は何かが過ぎ去ったか、成就したか、結果が出たところから遡って語り始めることが多いようにぼくには思われていた。少なくとも書き手にはそれが掴まれていて、それをどう語ろうが小説中の設定に沿って書き進められればよい。ところが友人の彼の場合、書き手自身に結果の何かが掴まれていないのではないかと疑問が湧いてきた。小説の中で未完に終わることに必然性があれば、それまで小説の登場人物は生きてきたことになる。でも書き手自身の中に未完の部分があるのは小説全体を生きたものにするエネルギーが不足すると思う。

書きたいことがあるのに書ききれなかったのなら分かる。しかし書きたいことが十分に自身に掴み取られていないのなら、それをまず明らかにすべきではないだろうか?小説中にその追求の過程があってもいい。しかし、そのそぶりもないのだったら自己正当化のために書いたと疑われても仕方ないのではないだろうか? しかし、そのことは友人に伝えるべきではなかったかもしれない。ぼくは彼から憎まれてしまったようだった。