開界録2019

The time I retired from jobs is the period reviewing and comprehending my past life.

ぼくは吉本隆明の罵倒を信用しない

高名な左翼文化人として一般に定着している彼のイメージとは逆に、ぼくはこの人の彼に対する言葉に真を置きたい。以下、ネットで竹内芳郎氏を師と仰ぐ方のブログから引用する。

 

 

2011-05-14 16:15:14

2.1.4 吉本隆明への公開状(全文)

テーマ:竹内芳郎の思想

 
 本公開状は、『日本』誌七月号に見られる、ぼくへの吉本の弾劾文に対するぼくの方からの応答である。もともとは『現代の眼』八月号に発表予定の論文の末尾に附する目的で執筆されたが、紙数の関係で同誌には掲載不能となったので、特に新日文編集部のご好意により本誌に発表させて頂くこととなった。ぼくがなぜこういう形で彼に応答するか、またこの応答文を背後から支えるぼくの吉本批判の理論的拠点はどういうものか、については『現代の眼』八月号掲載(予定)の論文に展開して置いたので、同論文を併読して下されば甚幸である。

 ぼくに対する君の血迷った弾劾文を読して、正直のところ、ぼくは「憎悪」さえも感ずることができなかった。君にはお気の毒なことだが、ぼくの感じたものは、ただ君に対する限りなき「憐愍」でしかなかった。『高村光太郎』・『抒情の論理』・『文学者の戦争責任』など、かつてはあんなにも見事な文章を書いていた君が、とうとうこんなところまで堕ちて来たかと思うと、やはり不愍になるのが人情というものだろう。どうして君がこんなにまでなってしまったのかの理論的問題点は、『現代の眼』八月号掲載予定の論文中で多少とも触れるつもりだが、とにかく、こうした誰の目にも明らかな形でぼくの前稿の所論(『現代の眼』五月号所載)を自らいちはやく実証してみせてくれた君の無上の親切に対して、今ぼくは喜んでいいのか悲しんでいいのか何ともほろ苦い気持でいることを報告して置く。
 まず君は、ぼくがジャーナリズムの上でペンネームを用いていることを暴露し、まるで商業新聞の三面記事に出て来る詐欺犯罪者を扱う手口で、ペンネームの下に一々(こと竹内芳郎)と補い、それによってあわよくばまず実生活の面でぼくを苦境に陥れることができればとやっきになっているようだ。何とも卑劣で惨めたらしい努力だが、お相憎さま、なるほど初めのうちはぼくもこの陰険な現代日本社会のなかで闘って生きてゆく必要上やむなくペンネームを採用していた(自分の生活権を防衛するのは各人の権利だ)ものの、今では私的事情から殆どその必要もなくなり、むしろぼくの方から機会ある毎に、進んで読者に本名を明かすようにしてきている。残念ながら、君の卑劣な努力も少し手遅れだったようだ。それに、君は「二枚舌」という日本語の意味を本当に知っているのか? 小学生に物を教えるようで恐縮だが、同一人物が或るときにはAと言い、他のときにはBと言い、しかもAとBとが相反するか又は相矛盾するとき、これを二枚舌と言う。君がこの語をぼくの言説に冠したいのならば、ぼくが本名で書いた文章とぼくがペンネームで書いた文章との間で、(研究対象の領域上の区別を別にして)果してこういう本質的な乖離現象がおこっているかどうか、一度じっくり確かめてからかかって来給え。ぼくは今後とも、社会情勢如何によって、必要とあらば「二枚舌」どころか「三枚舌」でも「五枚舌」でも使うであろう。ただ君とは違って、どんな名で語ろうともそのつど真実しか語るまいと努めるつもりだ。ぼくが読者に伝えたいものは、ぼくの名前ではなくてぼくの文章自体であり、文章によって表現される真理そのものなのだから。君のようにデマまで飛ばして狂信者共を身の周りに集めることなぞ、ぼくは真平だと思っている。
 思えば君が五五、六年ごろまで日本知識人の転向を追求していたその文章には、その筆鋒がいかに烈しかったとはいえ、その頃の世評とは異り、ぼくは何一つ検事(および刑事)めいたものは感じなかった。むしろ君の苦しい闘いに、殆ど感動を覚えたと言っていい。ところがその後、君が花田を罵り、武井を叩き、梅本等々を追求し始めたとき(そしてその殿りがぼくへの罵倒だが)、ぼくはそこに明らかに君の検事的性格を看取して、心に何か冷たいものの走るのを感じた。しかも君の検事的性格は、単に他人の身元調査を執拗に追い続けるその下司な根性に在るだけではない。むしろ、そんなに身元調査に汲々としていたら当然君には解っている筈のことでも、自分の論告に不利と見れば平気で伏せて白を黒と言いくるめる厚顔無恥な態度(あたかも遠くは幸徳事件、近くは松川事件の際に検事のとった態度のような)――例えばぼくのことに関して言えば、ぼくの本名、勤務先、活動履歴などを調べ上げながら、それでいてぼくが全学連支持派から構改派に「転向」しただの、建学の精神に一言も触れたことがないだの、守るべき思想陣地さえもたぬホンヤク業者の分際だの、等々、一般読者でも一寸注意すればすぐバラすことのできる大嘘をつきながら恬として恥じないその態度――にこそ在るのだ。君が特高検事(刑事)に転業し、思想言語を専ら暴力の手段と化して、何一つ権力と資本の庇護をもたない、それどころか組織の支えすらもたない孤立した左翼知識人を、その生活の根から扼殺してかかろうと必死になるのは君の勝手だ、だが、それならばもう、「わたしは自分に家系のないことを誇りとしている」なぞと「しゃらくさい」口を利くことはよし給え。今こそ明白となったのだ、君の祖先が戦争中のあの無恥にして残虐な特高検事であったことが。君が小林多喜二など、特高検事によって獄中で惨殺された人々を、「恥づべき非転向者」の一語をもって戦後もう一度惨殺しようと試みたその深層の心理も、これでやっと読めた。ぼくならば何度殺されても、君のように特高検事なぞに生れ代りたくはない。それ自身どんなに大きな欠陥を蔵していたにせよ、小林多喜二野呂栄太郎など、戦前戦中の非転向者の惨死を心の底に深く秘めて、今後とも生きてゆきたい。だが、ここまで来れば、同世代に属しながらぼくが君とどんなに違う戦争体験をなし、それに基づいて戦後を生きて来たか、少しは語って置く必要があろう。君は「別の機会に中原に対する徹底的な批判を行う」と約束しているから、そのときに多少とも役立てば幸いだ。以下に記すことは、すべて証拠物件を挙げよと言われればいつでも挙げられる底のものばかりだから。尤も、君は評論家と検事(刑事)との「二枚職」(?)のようだから、論告に不利だと思えばとり挙げないかも知れない。だが、そういつもいつも読者を欺いてばかり居られないことぐらいは、心得て置いた方がいい。
 思えばもう廿年以上も前のこと、ぼくも君と同じく十代後半の青春時を、あの苛烈にしてかつ陰惨な大戦争のさなかで過していた。君も知る通り、あの頃には一切の社会科学的知識が完封されていたので、この戦争が一体どんな性格のものかを正しく見抜く方途は、ぼくらから完全に奪われてしまっていた。だがぼくは、この戦争が人間精神一般に対する理不尽な凌辱にすぎず、わが民族の過去から身につけてきた汚辱の結晶体でしかないことを漠然と直観するぐらいの知的訓練は、すでに己がものとしていた。だが、そんなことを直観していたからと言って、徴兵を真近に控えた幼いぼくに一体何ができたであろう。ぼくが一度は尊敬し、確実にそこから影響を受けたと信じていた当時の日本の著名な思想家たちも、戦争が進行してゆくにつれて、殆ど悉く戦争賛美の文章を美文に托して記っていた。ぼくはついてゆけず、彼らと訣別してひたすら自己自身のなかにたて籠った。それに、ぼくをとりまくぼくと同世代の若者たちは、ちょうどあの頃の君と同じ無智でかつ兇暴な右翼ファシストの卵か、でなければひたすら要領のよい「面従腹背」の立身出世主義者、君の言う「近代主義者」の卵か、その何れかばかりだった。バカ正直に時代の暗さを暗さとしか感じられないぼくのような青年は、必然にニヒリズムに陥るより他はなく、そのニヒリズムの底からぼくが自分の唯一の支えとして見出したものは、わずかに親鸞の優しい信仰だけであった。この信仰に導かれてまずぼくがとった第一の態度は、たとえ兵隊にとられても一切の特権はこれを拒否しよう、将校になることだけはあらゆる手段を講じて逃れ、あくまで一兵卒として死んで行こう、ということだった(ぼくは中学四年修了で高校に入学し、高校は当時二年半に短縮されていたので、廿才に達するまえにすでに東大法学部に籍があり、そしてここに籍のある者は、入隊後も実に豊かな特権享受の可能性を約束されていた)。もちろん「懲兵拒否」も、しようと思えばできたのかも知れない。だが、ぼくにはこの行為は、何か卑怯で不潔なもののようにみえてならなかった。そこでぼくは、すでに敗戦の色濃い四四年の秋、『歎異抄』から書き抜かれたささやかな一文を軍服の「物入れ」の奥にそっと忍ばせて、「にこにこせずに」、「神経症的な眼つきをして」、遠い中国の戦場に赴くこととなった。君の仲間の理科生の学友たちが、その特権のゆえに徴兵を逃れて「にこにこして」いるこの内地を後ろ手に見ながら――
 ぼくが軍隊の中で、一初年兵として一般庶民と交わって生活したそのくさぐさの体験を、今逐一報告している余裕はないし、それに第一、この部分には今ではもう物的証拠の裏づけがない。だからここでは、次の二つの事項だけを記すに留めよう――第一に、ぼくがここで初めて知った日本庶民の実相は、今君がしきりに「あるがままの大衆の原像」という呪文でもってのっぺらぼうに実体化しているものとはまるきり違って、生活的にも倫理的にも、もっと遥かに立体的に構造化された、多様かつ可塑的なものだったこと。第二に、君のいわゆる「近代主義知識人の俗悪な典型である」ぼくは、君にはお気の毒な話だが、奇妙なことに、かつて東大法学部の立身出世主義的学友たちの間で孤立したようには、そして今アカデミズムやぼくの学校の同僚の「ホンヤク業者」たちの間で孤立しているようには、決して孤立しないで済み、それどころか、その後再び経験することのなかったような親密な交歓を得ることができたこと。とは言っても、こういう庶民の間での個別的交歓の思出とは別に、長年この中国の野戦で殺戮・強姦・略奪を恣にしてきた帝国陸軍の組織としての兇暴さ・陰惨さはまことに凄まじい限りであって、この凄まじさにぼくのひ弱な肉体と神経でもって堪えてゆくのにどれだけの辛苦を要したか、それを君なぞ右翼ファシストに聞かせてやっても始まるまい。幾度か自殺しようと思いつめ、時には自己自身の選択を悔むまでにも堕落したが、何れにせよもうすぐ死ねるのだ、もうすぐ「浄土」に赴けるのだとの思いに支えられて、結局初心を貫いたまま最下級の一兵卒として生還することができた(但し、生還ということだけはぼくの予定にはなく、したがって初心に反したわけだけれども)。
 戦後のぼくの歩みを、こんな調子で続ける余白はもはやない。詮じつめれば、それは旧日本知識人の全面的敗北の明確な認識から出発して、新たに真正な知識人として自己を確立するための苦闘だった、とだけ語って置こう。ぼくは戦後、幾度となく己れの戦争体験にまでたち帰り、そこからこうした路線を自分に課したわけだが、ぼくの非力・怠惰・無能から、未だに道遠しの感を抱き続けているのはお恥しい。だが、ぼくが竹内名で行っている西洋思想研究は、厳密にこの路線の枠内に収められて施行されていることは確かであり、それをしも君が単純な「近代主義」だと誤認するならば、君はよほど重症の精神盲だと言わねばなるまい。つまり、ぼくが戦後まず西欧思想研究に手をつけたのは、別稿(『現代の眼』八月号)で論ずる通り、この国で真に思想の名に価する思想を形成するためには必ず外からの思想注入を媒介とせねばならぬその限りでのことにすぎず、したがってぼくは、西欧思想を己れの裡に血肉化してゆく過程で、一度だって自己の身を置くこの日本的現実との厳しい対決を忘れたことはない。その成果をどう評価しようとそれは君の勝手だが、とにかく、この一点でぼくが単なる「ホンヤク業者」とも「近代主義者」とも撰を異にすることは明らかだ。実際、ぼくが単純な「近代主義者」=西欧思想研究者たることを自ら拒否したればこそ、ぼくはアカデミズムの中で育ちながらも忽ちそこから徹底的に追放され、(ぼくは在学中、研究室荒しを主導したのみか、自分の尨大な卒論の到るところに、旧日本哲学者共への悪罵を鏤めて置いた)、こうして卒業後十数年にもなるのに専攻学科によってはどこにも講座をもつことができず、僅かにぼくの反逆的生き方を支持してくれた一友人の尽力と、ぼくに憐愍の情をかけてくれた他学科の一教授の「お恵み」とのお蔭で、今しがない一介の語学教師として生計を営んでいるのだ。つまり、ぼくが大学に勤務しているのは、君が会社に勤務しているのと同じ意味しかもっていないわけだ。一体君は特高刑事として、ぼくが卒業後一貫してアカデミズムのボス共のあらゆる白眼視に堪えながら苦闘して来たことの調査さえつかなかったのか? ただぼくは、こうしたことを「私怨」として表現することの無意味さを知っており、彼らに復讐する道は唯一つ、アカデミズムの中でぬくぬくと生きている連中には絶対やれぬ仕事を客観的な作品として打出すだけだと心得ているのだ。君が妙なコンプレックスを捨てさえすれば、及ばずながらぼくも君と同じ目標を追うて苦闘してきた(たとえ辿った道はまるで異っているとしても)こと、またそれゆえにこそ二人ともひどく孤独な存在にしかなり得なかったことが、君にも解って来ると思う。たとえ戦争体験が正反対だったとしても、そこからこそ一切の思索(または存在仕方)を汲み出して断じてひるむまいと決意してきた点では二人は同じであり、それゆえぼくは戦後十年間ほどの君の仕事を高く評価し、「個人的には深い敬意を払っている」と書いたのである。
 だが、ぼくの目からするとき、君はスターリン批判、ハンガリー事件以後、とりわけ安保闘争以後、決定的に誤った道に踏み込んで行った。問題の焦点は、前稿(『現代の眼』五月号)でも記した通り、日本左翼知識人の堕落への反撥の余り、君が戦後一旦は苦悩の裡に否定した戦中の己れの農本主義ファシズムイデオロギーをそのまま自己肯定するようになり、「大衆の原像」とやらの空想的理念のもとに極端な聖化を開始したところに在る。その愚劣さの理論的解明は別稿(『現代の眼』八月号)の方に譲ることとして、ここではただ、ぼくに対する君の罵倒に直接関わる点についてだけ、君の度し難い蒙を少し啓いて置いてやろう。つまり、一言で言えば、ぼくが公共の場で私怨を私怨として語ることを峻拒するのは、君がかんぐっているような、私情に対する「日本知識人」の恐怖または軽蔑、あるいは禁制(タブー)によるものでは断じてない、ということだ。私怨、大いに結構、但し私怨は私怨らしく私的な場で晴らさるべきであって、苟くも公器である活字などをそのために私用すべきではない、というだけだ。公けのものたる思想言語はやはり公的にのみ活用されるべきであって、例えば君が「現思研」でのぼくの質問を「異常に幼稚な質問」ときめつけるとき、一体それにどんな生産的意味があると言うのか。正直を言えば、あの折ぼくが君に感じた印象もまさに君と同じで、吉本ともあろうものが何て「異常に幼稚な」報告をするのだろうと、内心驚いた位だ。だから勝負は五分五分なわけで、ただ両者の相違は、何の客観性ももたぬこんな私情を活字にして公共化するふしだらな精神を己れに許容するか否か、ということだけだろう。一体君は本当に公私峻別することが日本知識人の因襲的反応で、公私混淆することが革命的なことだと信じているのか? だとすれば、上は大臣から下は下級官吏に至るまで、公私混淆を旨としてきた代々の日本官僚制、ひたすら「私情」をもって大学の公的人事を運営している日本アカデミズムの泥沼ほど革命的なものはないわけだ。君が「大衆」と「革命」の美名に隠れて擁護しているものが、実は日本社会の中の最も醜悪な恥部でしかないことが、これでもまだ解らないのか。それが解らず、いつも公私混淆し、己れの私的体験をそのまま無媒介的に公的・普遍的理論として打出して来るからこそ、君の最近の言語論・国家論・家論も、その並ならぬ努力にもかかわらず、一部の狂信者を熱狂させるだけで、真に客観的な科学的検討に堪え得ないものになってしまっているのだ。今からでも遅くはない。少しは自己規制し、己れを客体化して眺める術を習得する方が、身のためというものだろう。
 最後に一つ、君に確かに約束して置こう。現在、反動イデオローグは「夕暮れの星の数よりも少い」なぞと、君がどんなに大ボラを吹こうとも、日本独占資本はあきらかに帝国主義的復活の道を歩んで居り、それにしたがって社会の支配的イデオロギーも、あきらかに反動化し軍国主義化しつつある。いつ破局に達するか予料はできぬが、しかし、ぼくのような戦争体験をした者には、これ以上は退けぬ一線というものは既に確立されて在る。ぼくは一度は心ならずも日本帝国主義の手先となって、無意味に死すべく宿命づけられていた。偶然によって生き延びた戦後のぼくの生はいわば余生。今度こそぼくは明晰な意識をもって自らの死を自由に選ぶ権利を手にしている。今、右翼イデオローグと結托して頻りに左翼を罵倒している君や君の狂信者共が、やがてファシズム国家権力を背景に日本全左翼の扼殺のために起ち上がったとき、どんなに日本左翼が「堕落」していようと、そんなに日本共産党が「堕落」していようと、ぼくは躊躇なく彼らと共に君らファシスト対して死を賭して闘うだろう。ぼくは君と違って、どんなに私的には名も顔も知り合っていない人達とでも、それどころか個人的にはぼくを憎んでいるだろう組織(例えば日共)とだって、共通の政治・思想敵を前にしたら生死を共にするぐらいの覚悟はできている。それがどんなに辛いことであっても、これがぼくらの現に生きている現代政治世界の非情な現実なのであり、これから逃避して君のようにベタベタした心情的レヴェルでしか人間の連帯を発想できないような連中は、せいぜい右翼反動テロリストの血盟団的小集団しか組織できぬであろう。それもよかろう。とにかくそうなったらもう言葉は必要でない。武器だけが必要だ。思えば戦後、ぼくが最初に感動したものは、(不完全な情報だったが)ファシズムに対して馴れぬ手つきで銃を手にして闘ったヨーロッパ知識人の、絶望的なまでに果敢なレジスタンスのイメージであった。安保闘争の最後の幕切れの折、国会前の冷々したアスファルト上に坐り、白々と明けゆく暁の空を眺めながら頻りに思ったことは、どうして日本人民はいつまで経っても武器を手にする術を覚えないのだろうか、ということだった。ぼくの習得したものは旧式な三八式歩兵銃の操方でしかないけれども、とにかくぼくはもう一度銃を手にして、今度は意識した一兵卒として死んでゆきたいと思っている。血迷った転向ファシスト吉本隆明、こういう新たな型の戦後左翼知識人も生れつつあることを銘記して置くがよい。