開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

2022年目標一部変更

Complete one thing and then do the next.

  • 英語学習(暗記) DUO3.0 → 英作文のための暗記用例文300
  • テニス スピンサーブをマスターする                                クロスへのストロークが基本となるようにする(8月28日追加)スピンロブをマスターする(9月3日追加)
  • 古典文学 源氏物語谷崎現代語訳巻三までを読了する
  • 学術書を読む とにかく1冊ずつ読み終えること 「人新世の資本論」→ 「精神分析入門」→ 「哲学する日本」→ 「トランス クリティーク」→ 「世界史の構造」→「ロシア革命史」→「全体主義の起原」→「危機の二十年」→「弁証法的理性批判」(7月10日現在「世界史の構造」読書中で、あと4冊を今年中の目標に追加する。)
  • 読書感想文 野露読書会課題本

Keep track them.

 上記各目標の進行状況をブログに都度記載する。

上記 【英語学習(暗記) DUO3.0 → 英作文のための暗記用例文300】は実力以上の目標だったため、以下に下方修正して改める。

  • 英語学習(Lestening/Reading) 「The great gatsuby」(IBCオーディオブック)

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improvement

今日のうち、上達したことに集中して記憶する。上達し続けるには挑戦しなければならない。誰でも普通にできることでも自分ができないことがある。今はできないことでもやり続けることで、少しずつできるようになることもある。失ったことを取り戻すことや心の傷を癒すことも、できなかった事のできること化に含める。

やや大きな問題になるが、ヘーゲルの疎外概念も失ったことや心の傷のようなものだと思う。だとすれば、ヘーゲル哲学の疎外からの回復過程の自覚運動も参考になるはずだ。あの精神現象学も「喪失からの回復」の現象として読めるかもしれない。精神現象学は哲学というよりも文学だという人もいた、、、

今日をどう生きたか

何となくしか人生を生きられなかった過去から脱して、自ら生きることを選択することが第2の人生を生きることになる、という目標を立てた。一日一日を充実させること。昨日まで出来なかったことをできるようにするために、出来なかった原因を仮説を立てて追求する。一つ一つやる事を決めていかなければならない。自分と関係する隣人たちとの共生を実りあるものにしていくこと。相手を尊重し、共に楽しくなるように努める。一日の終わりに、今日相対した全ての人たちに自分がどうであったかを反省する時間を持つこと。

「ドライブ・マイ・カー」読書会

野露読書会の藤井と申します。今回二つのテキストを読んでどちらの読書会に参加するか迷いました。結局「ドライブ・マイ・カー」にしたのは読後感がとても良かったからでした。主人公が小説の中の日常に戻って、生きる希望が感じられて終わるからでしょうか。ちょうど小説を読み終わって日常に戻る感じとうまく同調したのだと思います。

主人公の家福は飲酒運転と緑内障の兆候もあって交通事故を起こし、運転手を雇うことにしました。その時もう60歳近くになっていました。その運転手はみさきという24歳の女性でした。この若い、自分の娘ほどの女性に運転を任せる、という設定が「ドライブ・マイ・カー」という題になっていると思いました。彼女の運転は一定のエンジン回転を保ち、シフトチェンジを感じさせないほど滑らかなものでした。家福は毎日職場と自宅を彼女の運転する愛車サーブで送り迎えされているうちに、リラックスしてプライベートなことも打ち明けるようになります。

家福は29歳で音という女優と知り合い30歳で結婚して、子供ができますが生後3ヶ月で亡くなります。音は子供がなくなると失意からもう子供は作らないと「宣言」します。音が家福に知られないように不倫しだしたのはその頃らしいことが後から家福の「追求」から知られます。音は47歳で子宮癌で亡くなります。家福は妻の死によって、不倫の本当の原因を訊き出せずに終わったことから、その後の人生がそのことの「追求」になります。但し、嫉妬に狂うオセローのようにはならず表面上は理想の夫婦のように演技します。二人は俳優だからという設定ですが、本心を見せないことで妻の不倫は進み、夫は少なくとも4人が不倫相手だと気づきます。家福は妻と別れることを恐れてか不倫に目をつぶり、4人目の不倫相手の高槻という俳優に近づきます。それも音が亡くなってからの行動でした。亡くなる前に行動することは、「(演技が)技巧的すぎる」というのです。何が技巧的すぎるのか疑問を持ちましたが、音の技巧が加わるとややこしくなるという意味なのでしょうか、ここはぼくにも流石に分かりませんでした。

ともかくこの小説の最大の謎は、音がなぜ不倫を続けなければならなかったかです。1回なら女優という仕事ながら相手の男優とできてしまうかもしれませんが、続けるとなると夫に対してのリスペクトがなくなっていると見るのが妥当ではないでしょうか。ここでぼくの大胆な仮説を提案させてください。家福と音の間にできた子供が3ヶ月で死んでしまってから、音はもう子供は作らないと「宣言」」した時、どうして家福は自分の子供が欲しいと反対しなかったのでしょうか。女として愛する夫の子供が欲しいと考えたこともあったはずで、そちらの方に夫として頼むこともできたのではないでしょうか。あっさりと「宣言」を認めてしまったことで、音は本能の部分で家福に侮辱されたと感じたのではないでしょうか。だったら、子供を作らないセックスを夫以外の男として「仕返し」をしようと心の底の方で決心したのではないでしょうか。あるいは、夫は私を必要としないと感じたのかもしれません。この辺りは男のぼくの全くの推測です。

さて、不倫の原因は最後の場面でみさきによって「病」だと言って慰められます。あなたの奥さんはあなたを大事に思っていたから、大事でもない相手と単なるセックスをした(だからどの相手とも実らせないまま別れた)のよ、と。24歳の娘のようなみさきから、あたかも達観したかのような意見を父親のような家福に聞かせる設定が面白い、と思いました。終わり。

※ この記事は、今日行われた「本を読む仲間の集い」(石川県読書会連絡協議会主催)に参加したぼくの感想にその場で言えなかった意見も加えて書いたものです。

ボードレールに浸る

定年になって9年経って、もはや定年後として今をとらえることが意味をなさなくなっている。隠居の日常ではもとよりない。歳をとった万年青年といった感じか、怪しい浮浪者のようかもしれない。確かに自宅に定住しているが、意識は無国籍の自由人なのである。中身が自由な浮浪者なら、外見は素性のはっきりした善良な市民のスタイルを偽装する必要がある。ぼくは定年後伸ばしていた髪を昨年から、七三分けのノーマルカットにさえしている。それまではロックミュージシャンのように真ん中で分け長髪にしていたのだが、それだと本当の浮浪者に見えたのでやめることにした。サッパリしてみるとその方が似合っていることに気づいた。この歳になって初めて自分の髪型が決まったということは、人生の大半を損してしまったかも知れない。

さて私はここ数年定年後の習慣を固めて、隙間に手持ち無沙汰になって気持ちが落ち込んだりするのを避けるようにしてきた。それがここ最近つまらなくなってきて、せっかく作った習慣を破りたくなった。第一に読書会に入ったために、読む本がつまらなくなった。別に仲間に趣味まで合わせる必要はないはずだが、円滑に進めようとすると順応してしまう。テニス教室も読書会も古典文学の会もみんな女性中心だ。別に悪ぶるわけではないが、うまく飼いならされているような気がして野生を取り戻したくなる。そこでこれから詩を読むことにした。「悪の華」のボードレールだ。そういえば、人文書院刊のボードレール全集を持っているのだった。

未成年のころの後悔

高校1年で世界文学全集を読み始めて、スタンダールとかデーテとかドストエフスキーなどの小説を、何もかも新鮮なことばかりに出会って夢中になって毎日読んでいた。当然恋の擬似体験もすることになる。初恋もしないのにいきなり複雑深遠な恋にはまってしまって自分が分からなくなり、夢想の中を熱病にかかったように自宅の勉強部屋と学校の教室を往復していたように思う。3年のクラス替えですぐにAに取り憑かれてしまった。いきなり一緒に帰ろうと誘って恋の真似事に付き合わせてしまった。小説に憑かれていたから、変な自信があった。強引さは好意的に受け入れられたようだった。ずっとずっと後になってAに、ぼくと結婚したいと思ったことがあるかと聞いてみた時に、最初の「デート」の時すでに思ったと言った。ぼくだけじゃなく彼女の方も、のぼせ上がっていた。確かスタンダールだったか、あるいはドストエフスキーだったかも知れないが、恋は最初ののぼせ上がった時に急に我慢して距離を置くようにすると、不安からさらに燃えるようになるみたいな技術を書いていて、無謀にもそれを試してAを精神的に追い込んでしまったことがあった。今でもそれを後悔している。もっと素直に「高校生らしく」明るく穏やかに友達から始めて付き合っていれば、どんなにか深い絆を築けたことだろうと悔やまれる。というかAにすまない思いを負い続けることになった。それだけに今でも、未成年のころが心に生き続けている。

トロツキー著「ロシア革命史」を読み始める

何度か中断しながらも読み続けている。義務としての読書はなかなか進まない。小説のようにのめり込む事はない。兵士になって辛抱強く読み進むしかない。革命家自身による、革命の記録書。トロツキーの「ロシア革命史」を読み始めている。とにかく長い。「ジャン・クリストフ」や「青年の環」や「源氏物語」ぐらい長い。今日、角川文庫版で190ページまでには進んだ。10月革命の年1917年の2月27日の場面のあたりを今読んでいる。労働者とボルシェビキと警察と軍隊が決死の覚悟で対決するのだ。革命に合流する兵士も現れる。彼はもう後にはもどれない。もどれば殺されるから前に進むしかない。スターリンの軍隊がドイツと戦った時もそうだったらしい。戦わなければ上官から撃たれるのだ。ロシアというのは底知れぬほど恐ろしい国だ。日本の戦国時代も厳しいが、ロシアとウクライナは21世紀の今も厳しい。ぼくはそんな情況からは逃げ出したい。でも本を読み進めなければならない。読むのをやめれば、そこで終わる。簡単なことだ。やめてしまったら、ぼくはぼくで無くなる。

ウクライナの逆襲とは

ウクライナの一時的な勝利は、ウクライナ国民にとって戦争を一層悲惨なフェーズに押し上げることになる。ロシアは戦術核の脅威をちらつかせる前に、これまで止めていなかったエネルギーを止めることになる。

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文化的なこころを持つ女性たち

   

ビートルズが「リボルバー」や「ラバーソウル」でガンガンヒットを飛ばしていた頃、世界中のティーンエイジャーに熱狂的に迎え入れられていた。「マジカル・ミステリー・ツアー」にまだ行かないまでのビートルズの曲が好きだ。しっかり女の子の心をつかんでいたbeatとharmony。その世界が今のぼくにとって幸福を感じさせる。通過儀礼でしかない未成年の夢想がとても貴重に思える。未熟で未完成で可能性だけしかない自閉的な世界を、ぼくも確実に生きていたことがあの頃のビートルズと共に思い出される。子供でも大人でもない、社会に出る前の永遠のモラトリアムにどんな熱狂が隠されているのだろうか?大人の女性にだって永遠に少女の部分はあるだろう。感情の死ぬまで枯れることのない純情さは、切なさの近くにあるかもしれない。母になる強さではなく、姉や妹としての、あるいは一人の少女としての強さがあるような気がする。精神的貴族としての誇りやキャリアウーマンのような強さでなく、小さく可憐で弱いものに無意識に応答する、自然のこころの強さというべきものがあると思う。あえて文化的なこころ、と呼んでみたい。定年退職してから、不思議とそういう女性ばかりに取り囲まれている気がする。

「ドライブ・マイ・カー」読後感

「ドライブ・マイ・カー」の感想を書く。映画は見てないので村上春樹原作の方だ。2回読んで、最初は書いてあるままをそのまま自分にインプットする読み方だが、2回目は作者の村上春樹の頭の中を想像しながら読んだ。もちろん2回目の方が圧倒的に面白かった。おそらく本人自身が書き上げた充実感のままに、ぼくの読後感も充実していた。こんな読後感も久しぶりだ。長編の読後も達成感があるが、短編の読後は余韻に浸れる。読後にしばしば小説にあった細部の感じを味わい直したりした。おそらく春樹ワールドに馴染んでいる読者はぼくと同じように、すべての小説を同じテーマで手を変え品を変えて書いていると感じていると思う。この「ドライブ・マイ・カー」も、妻が残した謎を知ろうと不倫相手から真実を探ろうとするプロセスが描かれている。今回は子宮癌で死んでいるが、失踪や自殺の設定とそう違わない。主人公の「家福」は俳優で、演技と素の自分の境目が曖昧な設定なのは、「うそ」の文学である小説の作者(「風の歌を聴け」のあとがきでデレク・ハートフィールドという架空の作家から学んだと書いている)と類似している。伴走者の「みさき」は「羊をめぐる冒険」の「完璧な耳を持つ女の子や「ダンス・ダンス・ダンス」の「ユミヨシさん」の役回りだ。そして妻の「音」は、「風の歌を聴け」の「三人目のガール・フレンド」や「ノルウェイの森」の「直子」に当たるだろう。

終盤に至って、「みさき」が「音」のセックスは女という性の病気のようなもので、夫であるあなたとは友人でもある固い絆で結ばれていたと思う、と慰めていた。娘ほど年下の女から洞察に満ちた「回答」を得て、何だか常識的に明日も生きようというような肯定で終わるのが何とも「反小説」的で良かった。

4回目のワクチン接種

69歳の今日のような気分が訪れることをサラリーマンの時に予想し得ていたか、全然だと思う。今日の気分はまるでサラリーマンの時の休日のようだった。妻が4回目のワクチン接種で一日寝込んで、ぼくはといえばほとんど独身の日常性だったからかもしれない。朝食もお昼も夕食も一人で食べた。パンやインスタントラーメンを作ったり、カツ丼のテイクアウトを食べた。妻は何もいらないと言って、冷たいお茶ばかり飲んでいた。熱はないものの、体はしんどいようだった。午前中は仲間とのテニスも一人で行った。調子は良かった。決めようとして6、7本決まった。午後からはずっと部屋にいて、テレビを見たり本を読んだり、POPSやJAZZを聴いていた。妻は寝ていてぼくをどんな風に思っていたことだろう。きっと自分さえ良ければいい、冷たい人間だと考えていただろう。何か買って来ようかと訊いても、きっぱり「いらない」と言われた。

ぼくという主体を立てること

出来るだけ正直に自分の実力というか人間性というか、客観的に自己評価してみて思うのは、「ぼく」という主語を持っていることだと思う。ぼくは、で書くことができることを最大の強みに思っている。世界に「ぼく」で対決する手段を持っていることを救いだとさえ感じている。このブログを書き出す前はそうではなかったと思う。最初は、ぼくはと書いてからまるっきり続かなかった。一旦自分の無力を感じたら、どこまでも落ち込んでいたと思う。今ではどこかでその動きを食い止めることができる。友達が一人もいなくなっても、自分だけは(書く主体としての自分は)友達でい続けることができる。寂しすぎるという人もいるかもしれないが、絶対的な安心がそれで得られるとしたらそれに勝るものはない、と思う。書く自由という場所を手放さなければいいのだ。

今日ふと、ぼくは自分の人生で全く孤立していた頃を思い出していた。周囲から全く見捨てられていた時の感情を思い出すとそれ以上に辛いことがあるのかと思う。共同体からの疎外という文学・哲学的な問題でもあるのだけれど、(逆にいうと共同体の一員と感じられる時の安心感は格別なのであるが)ことさら難しくする必要もない。ぼく達は喪失感の時代に生きている、とも言える。村上春樹はそのことを小説化した。その小説の中にいる間は、孤立感は解消される。

今ではぼくは強くなっているが、とても弱い男であったことも確かだ。弱かった時のことも隠さず肯定したいと思う。

出逢いの予感

思えばずっと引っかかっていた。言葉と生きることのどちらが重要か。例えば、小説で美文が必要か。それとも事実そのものが生き方として凛としていればいいのか。削ぎ落とした文の余韻こそ真実を語るとか。どちらかと言えばぼくは社会派だった。究極的に戦争とか革命とか、生き死にの抜き差しならぬ状況が最大の価値の場所だと考えていた。しかしそれは不幸なのでそんな状況はなかなか訪れない。遠い情報の果てにしか、曖昧のままでしか、よくて数ヶ月の現実でしかない。そうならば本当に確実に在るといえるのか。在るが儘などに真実があるのか。妥協や自制や普通を装った人生など、どうでもよくないか。もっと言葉を生きてみようと、言葉を音楽や絵画や彫刻のように使ってみようと考えた。今日、ある女性詩人の名を知ってから。これまで生きてきて出逢いたかった人なのに巡り合わせがなかった人に思えた。その人に言葉の奏で方を教わろう。

定年退職はしたけれど

定年退職はしたけれど、引退した気はしない。ぼくの人生でまだやり遂げていないことが随分ある気がする。大学を出て就職し結婚して家を建て定年まで勤めたが、何かが残っている感じがする。出世せず、仕事上の業績もなく、資格を持たず、これといった特技もない。お礼を言われたこと、褒められたこと、頼りにされたことが、記憶する限りの中では、無い。おそらく小さなことではあっただろうが、人並み以上の評価はなかった。だったら今まで生きてきた甲斐がなかった、とは言えない。誰かの役に立てたことがなくても、少しは周りに迷惑はかけたかもしれないけれど、これまで生きてきたことは否定されることはないと思う。妻とは離婚せず、何とか毎日飽きもせず暮らしている。おそらく食べていくこと自体が大変なことなのだと思う。生物的な発達、成長、維持を確保しながら、退屈を避けながら興味を持って生活すること自体が思っている以上に価値あることなのだと思う。ただの、普通の人の人生を愉快に、淡々と日々やるべきことを自信を持ってやり抜くことがいいのだ。それ以上でも、それ以下でもない、という心境を生きることなのだと思う。だから、今の現状を肯定し尽くすことが日々求められるのだ。、、、で、何が残されていると感じられるのか、に戻ろう。先の大戦の国民的総括と国家についての認識、再生すべきあるべき共同体の研究、自分の中にある快の確認とその表現などが思いつく。とにかく、今日のところは書き出せたことでよしとしよう。

人生の黎明期

今日14時30分から野々市市役所で、4回目のワクチン接種を受けてくる。今回の注射が一番うまかった。最初のチクリの後ほとんど痛みを感じなかった。流れるようなシステムの中を多くの野々市市民と共にワクチン接種するのは、誤解されそうだが気持ちよかった。共同体の一員としての義務を果たしたような精神的な安定感があった。やはりどこかで安心したのだろうか。帰宅して喉が渇いたので、トマトジュースを飲んだ。冷えていてとても美味しかった。たまたまテレビをつけると、NHK連続テレビ小説「ひまわり」の復刻版をやっていた。主人公のぞみの顔が松嶋菜々子だとはすぐに気づかなかった。一昔前の初々しい女性の姿に何か懐かしいものを感じた。純粋で真っ直ぐな目にすぐに惹きつけられた。弁護士のたまご役ということで、どこかに正義感を漂わせている。ドラマの中で「あんたは自分が太陽だと思っている」と言われていた。自分が中心にいて周りが回っているように思える充実感こそ最高ではないだろうか。幾分おめでたくはあるが、ぼくはそういう人の輪の中に居たいと思う。それはどこかでぼくの高校時代の雰囲気を思い出させた。現実の生活と自分の想いが充満する身近な空間とが渾然一体となったドラマ的な日常がしばらく続いていた、、、。挫折が運命付けられているとはいえ、その数年間こそ人生の黎明期として貴重な時期だったかもしれない。

自己確認

自分の過去のブログを読んだ。「高校時代に永遠化されたもの」と題されたものだ。そこで高校時代が祈りの時期だったと書いていた。自分の心に、イノセントで甘やかな永遠を賛美する信仰心を育てるものだった。今それを分析してみると、社会に出て行きたくないという、抵抗を内面に作ろうとしたのだと思える。大人になりたくなかったのだ。それは人類の歴史では普通、通過儀礼などで強制的に破壊すべき、自我の殻なのだったかも知れない。そこで大人になりきれなかったら、その後甘えた人生になっていたかも知れない。その頃ぼくは何とかして自力でその壁を破ったのだろう。受験勉強に集中して何とか入学試験をパスして大学に進むことで、「通過」はしたのだ。試験勉強は有無を言わさぬ強制の下に自分を置くことだ。ぼくがここで問題にしたいのは、強制下に置かれた自分ではなくて、強制する方の自分である。どうしても大学には進んで、「通過」したいと考え実行に移した自分は、言わば高校時代の「信仰」を絶ったのだ。それは哲学的に表現するとすれば、高校時代の信仰を対象化できる位置に自分を押し上げたことになる。信仰を絶つが信仰を記述することはできる。そこで初めて信仰がどういうものだったかを振り返り、見ることができる。

先のブログでは、その信仰の世界を、甘やかさがあって、痺れるようであり、悩ましさを伴い、少し悲しみが混ざっている。大自然に開かれたというより、画家の工房のような狭さの中で夢見るような空間」と書いていた。今のぼくの知識で言えば、その空間は「詩的」空間であり、「自己表出」のエロスであり、芸術行為である。

こうやって書いてみると、ぼくは大学を美大に選んだのは自分の信仰心を生かす環境に進みたいと考えたからだと分かる。しかしその選択は半分正しかったが、半分間違っていた。それは新たな環境を予め知ることは十分には出来ないから致し方ないことであった。自分の信仰と美大という環境は、半分だけクロスしていた。美大は確かに芸術行為を学ぶ場所ではあったが、造形的な美の表現行為の場所であってぼくの信仰を表現する技術(アート)を学ばせてくれる場所ではなかった。確かに今のぼくの理解には、造形美術と言語芸術としての詩には共通するものがあるのは確かだ。高村光太郎は詩人であり彫刻家だった。

現在69歳の自分が注目すべきなのは、今も生きている自分の中の芸術行為の源泉である、自己表出エロスである。それはリビドーであり、生命力に直接繋がっている。高校時代に芽生えたエネルギーのかたちに出口を見出さなければ、現在の自分も枯渇するだろう。