開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

70年代のぼくに見えていたもの

 失われた時代の雰囲気を再現したいとこれまで何度も思ってきている。70'sの音楽を集めて今聴いている。サイモン&ガーファンクルやクリーデンス・クリアウォーター・リバイヴァルやTレックスやドアーズなど。ユーミン五輪真弓ハイファイセットなど。泉谷しげる吉田拓郎井上陽水など。それらは70年代に新しい感性を生んだ。ザ・フーレッド・ツェッペリンデビット・ボウイなどはそれほど時代が影響していない気がする。ブルースやロックの伝統に踏まえているからだろう。おそらく70年代に、60年後半の起こった社会変革の挫折が「回収」されたのだろう。一度既成の文化的な一切が破壊されて、個人の瑞々しい感性が自由に世界をつくったのだ。新しい階層が生まれたのかもしれない。むしろ現在の方が差別や貧困という社会的な下層化が進んだと思う。あの頃は、まだまだ精神的に余裕があった。理念や観念に遊ぶこともできた。それも少数のマニアックな人たちではなかった。時代をリードさえした。その頃の空気を一番表現できた自由人を一人挙げるとしたら、村上龍かもしれない。

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宮沢賢治の朗読

先月のある日、宮沢賢治を研究されている岩手県出身で金沢在住の女性の方の講演を聞く機会があった。その中で、賢治の詩を朗読もされたのだったが、ぼくの印象は少し弱々しくて内心不満だった。ぼくは昔、ドリアン助川さんの絶叫するような「雨ニモマケズ」を聴いていたからだった。

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[青春回帰] I was like you

邦題が「そよ風の誘惑」で、オリビアニュートンジョンの「Have You Never Been Mellow」という曲を、昨夜Youtubeで偶然に聴いてその歌詞に惹かれた。どういうわけか、I was like youに心を動かされた。ぼくが英語学習の初心者なのもあるが、歌の意味が自分の過去を思い出させるのでブログに書いてみたくなった。I was like youはもちろん I like youではなく、私はあなたに似ていたである。昔これから付き合いが始まりそうな女性がいて、彼女の友人がどこかでぼくを見ていて、彼女に「友人が私があなたに似ていると言われたの」とぼくに告げたことがあった。そのことをこの歌詞は思い起こさせたのだった。それはぼくの19の時で、今それを思い出すことは青春を取り戻すことになると思って喜んだ。ちょうど今読んでいる、中村真一郎「四季」の世界にも通じて、「青春回帰」を真似てみようと思ったのだった。
その友人はどこでぼくを見ていてぼくの印象をつかんでいたのかは分からない。おそらく暗い感じがしたのだろうと思われる。ぼくにI am like youと告げた彼女も友人から暗いと思われていたのだろう。今だったら暗い性格の人間はコミュニケーション障害と同列に見られるくらいマイナスのイメージだが、ぼくの若い頃は神秘的なイメージもあって魅力と感じる風潮もあったのだ。コミュニケーション障害は同じ内気な性格の人の機能的なマイナス面で、今も昔も一緒だけれどそれを障害のように捉えるか、人をどこか寄せ付けないところもある神秘性と捉えるかの違いのように、時代の違いのようにぼくには思える。神秘性は恋に通じるというのは、僕らの時代だけのことなのだろうか?
とにかく、ぼくにとっては孤独な自分がもう一人いると感じられて、彼女に瞬間的に惹きつけられた。でも一目惚れでもない気がする。強い磁気があるのではなく、自分のものにしたいとは感じられなかった。一種の興味だったかもしれない。その謎を秘めた面影は崩さないようにして、少しづつ見えるようにしたいと今、思う。

There was a time when I was

In a hurry as you are

I was like you

There was a day when I just
Had to tell my point of view
I was like you
Now I don't mean to make you frown
No, I just want you to slow down
Have you never been mellow
Have you never tried
To find a comfort from inside you
Have you never been happy
Just to hear your song
Have you never let someone else
Be strong
Running around as you do
With your head up in the clouds
I was like you
Never had time to lay back
Kick your shoes off, close your eyes
I was like you
Now you're not hard to understand
You need someone to take your hand
Have you never been mellow
Have you never tried
To find a comfort from inside you
Have you never been happy
Just to hear your song
Have you never let someone else
Be strong

桐野夏生「バラカ」を読んで

桐野夏生さんも金沢市生まれである。これまで唯川恵さんと水橋文美江さんの小説を地元出身という理由から読んできたが、桐野夏生さんはそれ以前から同時代の学生運動がらみという、小説を読む理由で読んでいた。ここ二、三日「バラカ」を読んでいたが、それは前者の理由からであった。ぼくは「バラカ」がどういう小説か全く知らずに、同郷の作家でこれまで「抱く女」と「夜の谷を行く」は読んでいて、次に何か読んでみようと選んだ作品だった。だから3.11や反原発や幼児売買やレイシズムやネット社会の問題が扱われているとは知らずに読んだ。これまで3.11やフクシマを題材にした小説は求めて読んでいた。それらは「バラカ」を読んで即、色あせてしまった。圧倒的に力が優っていた。「バラカ」はぼくの中では「コインロッカー・ベイビーズ」と「1Q84」に匹敵する作品だった。(この小説をディストピア小説と分類してしまうと無意識に作品を殺すことになる。現実がすでにディストピアであって、ディストピアでどう生きるかを描くのが桐野夏生さんの小説なのだ。)「バラカ」を読んだ後、桐野夏生さんに関する記事をネットで探していたら参考になるブログを見つけた。桐野夏生さんには、文学の今に対する明確な主張があった。これまで3作を読んでいるのでそのメッセージは腑に落ちて、ぼくの文学観を変えうるものとなった。

たったひとつ、彼らの振りかざす「正義」と戦う方法がある。小説を読むことだ。

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夏の終わりに

何にも用のない夏の日の夕方

ふとあの頃の曲が浮かび、Spotifyの声が漂い出した

君は少女だった

乾いた風に髪をなびかせ

日焼けした肌の無垢な淑やかさを

誰はばかることない爛漫さを中心に置いて

ぼくを虜にしようとたくらんでいた

面影や匂いや空気は時間に込められて

どこかに保管されているらしい

もう恥ずかしさや初々しさに

改めて弁解することもあるまい

素直に認めて、今でも消えていないことに驚いてみよう

ぼくは少年のこころというものが

これまで歌われずに自ら捨て去っていたことを

もったいなく思う

子供には違いないが子供より自由を知っている

まだ男の肉体にはなっていないが

しなやかなバネと精悍な横顔に

共同体から抜けようとする野心を持っている

あの頃の君ともっと話がしたかった

途切れ途切れの言葉に

今だったら考えられた接続詞や思いやりの修飾語などを

付け加えることもできたろうに

もっと親切に、海のような寛容さを差し出したろうに

人生って脚本家が描いたような仕掛けには

永遠にたどり着かないものさ。

 

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ネット性善説

そう言えば、評論家がいなくなった気がする。この人が言うように、いつの間にかAIにとって代われてしまったらしい。ネットは最終的にいい方向に向かうと、養老孟司は言った。

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人生は死ぬまでの暇つぶし

ぼくのブログは自分のための気づきの記録なので、第三者が読んで分かるようには書いていない。書こうと思うと億劫になって書く気力が失せてしまう。誰かを救いたいとか、自分を認めてもらいたいとかという動機がない。敢えて言うとしたら、気づいたことを自分だけに留めておくのがどうしてもできなくなる心の疼きみたいなものはある。だったらやはり自分の気づきを認めて欲しいという事になるのだろうか。でも認められなくても仕方がない、という諦めはある。

一つは読書会で読んだ、永井路子の「薄闇の桜」に出てきた、主人公「いと」の誘拐を救った「荻水先生」の言葉に出会ったことにある。「人生は死ぬまでの暇つぶし」だというのだ。暇つぶしは退屈しのぎのような一時しのぎではなく、人生の全ては暇だとしてそれでも手を抜かず丁寧に手仕事をし、一日を満足して過ごすという態度なのだ。この態度は目標を作らず、目の前の事に全力で取り組む生き方に通じる。どっち道人生は儘ならぬものであり、自分の力が及ばないところで自分の生き方が左右されるものであり、運がいい時もあり悪い時もある。だから自分の力が確実に及ぶ身近な範囲で全力を尽くしていればいい、という人生訓になるのだろう。「荻水先生」はそれまでの藩仕えの経験からその結論に達し、フリーの身になった。「いと」はその言葉を聞いて、何だか寂しくなり先生を慰めようと思って、「私がもう十(とお)歳をとっていたら先生のお嫁さんになってあげる」と言うと、先生は「いとは心優しい子じゃ」と言う。歳が50くらい違うのに、そのやりとりは年齢の差は消えて温かい気配が漂う場面となる。この小説を読んで、ぼくはヘミングウェイの「老人と海」の、サンチャゴと少年を思い出した。少年は老人を尊敬していた。いとは10歳で利発で、「こまっしゃくれた」少女だった。後年いとは噛み合わなかった亭主が死んでから、その時先生を本当に好きになっていた、と思い返していた。

読む幸福な時間

今ほとんど満たされて平穏な心の状態だ。何か書きたいことがあるわけじゃない。記録しておきたいとも何も思わない。本も読みたい気がしない。読めないわけでもない。ちょっと思うのは、こんな平穏な状態は普通書くのが難しい気がして、だったら挑戦の意味で書いてみようとしたのかもしれない。普通は何か不安要因があって、それを取り除こうとして心の中を探るようにして書くことが多いと思う。少なくとも自分の場合は。満たされた心身状態の原因の一つは、今読むべき小説がはっきりしたことがあるかもしれない。本格的な純文学の小説で、中村真一郎という一流の作家が渾身を込めて書き上げた長編四部作「四季」「夏」「秋」「冬」である。定年(作品内では「停年」となっている)がテーマの一つにもなっている。人生の収穫期を描き切って老年を迎えたいという作家が主人公だ。これまで3回ほど読み始めて挫折している。今回初めて深く入り込めたので、読み進められそうな自信が持てた。その自信による安心感が、今の心の平安状態を作り出していると思う。読むべき小説が読めるという幸福。ぼくにとっては久しぶりに訪れた豊かな「時間」である。

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意識で遊ぶ

ぼくは68歳だけれど、昨年あたりから年齢が気にならなくなってきている。それまでは、ずっと定年後どう過ごすかみたいなことに捕らわれてきた気がする。「終わった人」とか「60からのゴールデンエイジ」だとか、「老後難民」などのワードが気になっていた。今は全く気にならない。人生そんなに早く終わらない、という感じだ。時間なんて自由自在なものだ。回想を通して様々な時間を生きることができる。青春の時間は無限で、年をとると時間は短くなっていくとよく聞くが、それは思い込みに過ぎない。時間をフローで考えるからそうなるのだが、ストックで考えれば良い。時間の哲学を小林秀雄ユーミンから学ぶことができる。ユーミンの何気ない歌詞には驚かされる。(例えば、「強くなる もっと強くなれば 忘れずにいられる 辛くても きっと後になれば やるせなく思える」のように)

実人生は空間の中で「敗北」しても、時間の中で「復活」する。文学も恋もそういうものだと思う。文学に生きて、いつも恋していたら、幾つになっても青春の中に居られる。それは意識で遊ぶことかもしれない。もうそんな青臭いことは高校時代で終わっていると思い込んでいたけれど、別に終わらせないでもいい事にしよう。おそらく誰にも迷惑はかからないと思うのだが、、、

エッセイか、小説か

先日図書館から借りた、滝口悠生の「長い一日」を読み終え、今、柳美里の「南相馬メドレー」を半分まで読んでいる。「長い一日」はエッセイのような小説で、「南相馬メドレー」は純然たるエッセイである。前者は誰かのブログに載っていて、おそらく何が書かれてあるかより書き方に興味を惹かれて選んだ。後者は書かれてあるだろう事実に興味を惹かれて選んだ。つまり、あの南相馬の人々と柳美里の交流そのものに関心があった。続けてこの2書を読んで(後の方は半分まででやめてしまうかもしれない)、自分が読書の何を優先するかが分かった。自分との同一性だった。南相馬が意味する3.11や原発という現実はぼくには他者性の壁があった。「黒い雨」を読んだ時は被爆者との同一性を最後には築くことができた。「南相馬メドレー」はエッセイで「黒い雨」は小説だったからだろうか?

滝口悠生の「長い一日」に書かれてる内容は、文芸の昔の分類からしたら私小説になる。ところが「私」の枠を軽々と超え、流れる小説内時間も一定ではなく自由が漲っていた。登場人物ごとに地の文の話者がかわり、会話文は全て間接話法で書かれる。主人公の地の文では、「おじさん」「おばさん」だが、主人公の妻の地の文では、「おじちゃん」「おばちゃん」になる。妻は一般名詞のように、主人公の友人の地の文で「妻」と出てきたりする。この文体はおそらく滝口悠生の生き方にも通じているのだろう。ぼくが「密かに」目指している、「小説的な生き方」に何となく似たようなものを感じた。

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老いについて

若い頃は過去より未来が大きい(長い)が、老年になると未来が小さく(短い)過去が大きい(長い)。これは過去だけが確実な存在なのだから、本当は過去が大きくなる老年の方が豊かなはずだ。もちろん人生には浮き沈みがあり、良い時もあれば悪い時もある。楽しいことも辛いことも多く経験してきて、ともかくも多くの経験が過去の中に蓄積されている。人生長く生きてきている方が色々な経験をしているから、豊かな人生のはずではないか。もしも健康であれば、お年寄りの方が人生の満足度が高いはずではないか。老いが凋落のイメージになるのは、若い時にできたことが老いるとできなくなることと結びついているからだろう。もし若い時は時間がなくてできなかったことが、退職して十分な時間とともにできるようになれば、若い時よりも前進していることになる。ぼくは若い頃より今の方が多く本を読んでいる。若い頃は気付けなかったことも老いて気づくことが多い。感受性や好奇心は若い頃より増しているかもしれない。ただ行動力は落ちていることは認めるが、自由時間が若い頃より圧倒的にある今の方が行動範囲は広く持てるかもしれない。要は考え方だろうと思う。他人が考えたことに別に従うこともない。NHKプラスで「100分de名著」を見ていた。ボーヴォワールの「老い」を取り上げていた。上野千鶴子氏が解説していて参考になることもあったが、やはり西洋知識人の考えには東洋的な思想がすっぽり抜け落ちている面がある。そもそも実存主義では西洋至上主義になりやすく、レヴィストロースの野生の思考に負けてしまった。老いについては、野生の神話や日本の神話の方に真理がありそうだ。

超スローに生きる

今日は76回目の敗戦記念日でお盆の日だった。毎年繰り返される、敗戦記念日のテレビの特集番組は見なかった。午前中に仲間とテニスをして、午後から母親を連れて墓参りに行った。居間のソファーで少し長めの昼寝をした。ぼんやりと今の妻との生活のことを考えていた。毎日三度の飯(朝食はたいがいトーストにコーヒーだが)を作ってくれる妻のことを思った。メニューを考えるのが面倒だと言いながら何とか作ってくれる。今晩は、まぐろのづけ丼だった。美味しかった。93歳の母親はもう自分で食事を作ることが面倒になっていて、夕食は宅配を頼んでいる。高齢者向けの栄養バランスを考えた献立になっている。食欲はあり、何とか健康を保っている。そのおかげでまだ介護の世話をせずに済んでいる。父が亡くなってから一人暮らしを10年間続けている。

長い昼寝からぼんやり考えていたのは、生き急がず毎日を丁寧に生きることだった。超スローに小説を読むように、味わうように毎日を進めたい。それが定年退職者の特権でもあると思う。

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自分を客観視すること

もうどうやってその人のブログに至ったかは忘れてしまったが、文章が上手くて読むとその人らしい流れや勢いが感じられて、あとで読めるようにURLを保存した。読者になれば済むのだが、その人のブログ読者は6人だった。どうして、いい事を書いている割に読者が少ないのか疑問に思ったら、素直に読者登録がためらわれた。投稿数は1495にも上るベテラン者だ。読んでいくうちにコロナに感染して入院し、その顛末を書いているらしいことがわかった。その中の記事で、闘病の時の事を退院してから周囲の人たちに話して聞かせていて、その話の反応などから自分を客観視できるようになった経緯のことが書かれてあって、ぼくにはその客観視できた経験が印象に残った。コロナ感染者という特殊な体験には言わばコンテンツが満載されている。それをありのまま伝えようとしても伝わらないことがあったんだろうか。貴重な経験の中にも自虐的なオチを考えたりして、相手を共感や納得に導こうとしている。できるだけ正確に伝えようとして自分を客観視することに意識的になったのだろうか。普通、ここまでブログに書くことに意識的になる人がいるものなのだろうか。ぼくは自分はどうなのだろうと、考えてみないわけにはいかなかった。ぼくのブログは主観的にしか書いていない、と思った。自分を客観視した途端、凡庸な自分が現れて忽ち無力感にとらわれる。幸いコロナ感染という経験からは免れている。身近に感染者はいない。妻はワクチン接種2回目で少し副作用が出てちょっとだけ慌てたりしたが、どうということもなかった。

客観か、主観かはどちらがリアルかに関わってくると思うのだが、それは経験の種類によって異なるのかもしれない。ぼくの経験したことは何とか定年までサラリーマンをやってこられたことぐらいか、、、、

ある歌人の現代批判

「近・現代の日本、殊に日本人特有の丹念に緻密に、合理化時代と言うと事の隈々まで合理化してしまう、この徹底した単純さみたいなものが、我々の現代の社会の生き方を本当に息苦しく、たまらない状態に追い詰めていることは確かですね。しかも、それを幾らか物に慣れている大人たちはそれほど感じないでいられるけれども、うぶな心を持っている者ほど、とても耐えられないという状態になっていくだろうと思うんですが、そういうときに何が必要なのか。我々が失ってきたもののすべてが必要だと本当は言うべきなんでしょう。文学的な情念、あるいは宗教的な情熱、そのほかいろんなものが考えられるわけですけれども、とにかくこのままでいると、どんどん先細りになっていくだろう、それは見えているわけです。」

_________________________________________________________ 岡野弘彦

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