開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

定年後の哲学その2

定年退職者が哲学に優位な理由は、思索する時間が与えられているからだ。思索とは、経済的な問題や心理学を含む医学や、実用的で商業的な利益追究のための方法などの思考から離れて、自由に世界と人類と自己について何が真であるか、何をすべきかを考えることだ。別に誰からも頼まれたわけではなくて、したいからするのだ。例えば、暴力と非暴力はどう戦うのかとか、nationとstateをどのように統合するかとか、正しさの根拠は何かとか、今世界に起こっている事を根底から考えるための哲学を身につけたいと思っている。それは高齢者にふさわしい哲人のイメージを与える。哲人とは最後に結論を出す人のことだ。もし自分がそういう哲人になれたら、定年後の人生は力強く生き生きしたものになるだろう。自分の頭で考えたい、そうでなければ自分じゃない。

定年後の哲学

今更と思われると思うが、定年になると無職であることは咎められないから、哲学するには向いている環境なのだった。最初からニートで組織経験がない人よりは、定年まで会社で働き定年後無職になるサラリーマンの方が、両方を体験しているので無職の自分についての内省や分析がしやすいアドバンテージがあると思う。そもそも哲学は人間を抽象化し普遍性に置くわけだから、定年後職業に生きることから離れて抽象的人間になる生活環境は、哲学するのにふさわしいのだ。定年後どう生きるかをこのブログで自分なりに追求してきたけれど、もっと哲学の問題として深めていきたい。単に「老い」の問題にはしたくないし、終活の問題にもしたくない。誰もが必ず訪れる老後を希望の持てる、もっとも豊かな人生場面として描き出したいと思う。これまであまりにもネガティブな問題提起ばかりで、誰もが歳を取りたくないと初めから思っている常識を覆してみたい。外観上の美醜にとらわれる文化から自由になって、精神の旺盛な跳躍と想像力による回想の自由に期待して、定年後の哲学をこれから打ち立てていきたい。

期待を持って定年後を過ごす

とても単純化して定年後ぼくがやっている事を述べるとすると、それは改めて知ることです。これまで関心があって少しはかじったことを定年後じっくり時間をかけて、知ることをやっています。例えば、英語を改めて自分なりに知りつくしたいと思っています。つまり使い方が手に取るように分かるまで知るのです。同じように、学生時代に遭遇したマルクスの思想とやろうとしたことを手に取るようにまで理解することです。それは手引きとなる先生の本をひたすら読んで理解し、知ることです。知ることさえまともに出来れば、自分の人生が満たされるのを感じます。知らずに死んだら浮かばれない、と思うことが定年後しばしばです。それほど「本」は素晴らしいツールです。まだその端緒についたばかりですが、コツコツとやっていけばやがて世界が新しく見えてくるでしょう。そのような期待のうちに定年後を過ごすことは老いにつながることなく、いつまでも若く居られると思っています。

後から気づく目標もある

大学合格、就職が決まる、結婚、マイホームを建てる、昇進する、子供ができる、定年退職する等々、人生にはその都度の目標(節目)があり、それを達成することが目指される。ぼくの場合は、昇進すると子供ができるは達成しなかった。でも現在食うに困らず健康で、雨風、暑さ寒さを防げるマイホームに住めていて、老後の心配もさほどないから概ね人生の目標は達成できているのかもしれない。しかしこころの満足にはきりがない。こころとか魂に目標を作ることなどできないだろう。家庭の幸せ、夫婦の幸せや友人関係での親密度などは、目標をこちらで作ったところで相手があることだから儘ならぬと思われる。でも関係の一方は自分であるのだから、心がけの目標は作れるのかもしれない。

何を言いたいかというと、最近あることで人生の目標を達成したような気がして、意外にも深いボディブローのような幸福感を感じたことがあって、でもそれははっきりした目標があったわけではなかったことについて、どうしてか考えてみたかったのである。どうでもいいようなことかもしれないが、ぼくには何か発見したような感じがある。つまり、経験の後にあれは目標達成したのかもしれないと気づくことがある、ということだ。実は無意識に目標にしていたからこそ、その経験は達成したかのように満足できたのだと。ことさら目標として明確化せずとも、後から気づく目標もある、ということを言いたかった。ぼくのそれは夫婦で達成した「目標」だった。

同人誌参加は諦めた

思わぬことに同人誌への参加を止められてしまった。定年後のぼくの生活は、テニススクールと読書会と古典文学会と母親の病院と買い物の送り迎えで回っている。同人誌で同人の人との付き合いも始まるかもしれない。妻は、これ以上のぼくの「広がり」にブレーキをかけた。離婚をチラつかせてまでの強い口調でぼくに迫った。面食らった。妻は本を読まない人だ。同人誌を運営するT先生の奥さんは、夫と同じほどではないが本を読む。読書傾向も時代小説が主で似ている。但し古典文学や読書会など読む仲間と付き合いはないみたいだ。要は夫婦で同じ趣味か、異なる趣味かで定年後の生活パターンが違うということである。ぼくと妻はテニスでは同じ趣味なので、夫婦で全く違うわけではない。同人誌に参加し始めると異なる趣味の割合が増えて、夫婦間の時間や意識の差が広がることを嫌ったということなのだろう。ぼくの友達で、夫は個人事業主で奥さんは検査技師という夫婦がいて、夫は定年後も仕事を延長し奥さんは定年で辞めることにした。その夫婦は離婚したのである。奥さんは定年後夫婦でゆっくり生活を楽しみたいと思っていたのに当てが外れたのが、我慢できなかったのではない。定年後一人でもやっていけるのに、まだ夫の世話を続けるのが馬鹿らしいと思ったのだった。

結果としてぼくは妻に従って、同人誌参加は諦めた。何よりも妻との時間が一番大切という、定年後の生活原則は守らなければならないからだ。

中村真一郎「四季」を読了する

ようやく長編小説を読む習慣を取り戻すことができた。単行本四冊のうちの最初の一冊を今日読み終える。最終ページに読み始めの年月日がメモされているが、何と2017年7月12日となっているから読了に5年半かかっていることになる。2021年の8月27日のこのブログに、中座していたこの小説を再開したと書いているので、その時からも1年半はかかっている。2段組221ページは1冊でも長編なのに全部で4冊なのだ。プルーストを翻訳したような長いセンテンスに慣れるには時間がかかったが、慣れてしまうとスラスラ読める。先のブログにも書いたように、これは定年小説でもあるから、今の自分にはピッタリはまる内容になっている。青春を回想するのだが、ぼくの青春と大きく違うのはあの戦争が定年時と青春時を分断していることだ。だからこの小説の主人公たちは自分の死に直面せざるを得ないので、ぼくなんかとは比べられない試練を生きるわけだ。戦争によって切断されたところから、定年まで生き延びて、平和時であったら普通に送っただろう文化的放蕩をやってやろうという、抜きがたいK(主人公の同級生でサラリーマン)の欲望に感情移入することができる。プルーストの連想手法や多重的時間や夢想と日常の並列などは、ぼくの好みでもあるので味読する楽しみもあった。もし定年小説というジャンルがあるとしたらぼくは1位に、日本文学大賞受賞のこの作品を挙げるだろう。

同人誌への投稿

金沢市文学賞を取られたTさんから勧められて、Tさんの参加する同人誌へ投稿することになりそうだ。今日「定年退職後のこと」と題する原稿を送ってTさんからの返信に「玉稿」とあった。「玉稿」とは初めて目にする言葉だった。多分承諾が貰えたのだと思う。Tさんは金沢文芸館で10年ほど、小説の創作講座を受け持っておられた。先生なのである。だからぼくの書いたものは小説だと認められたとまではいかないが、読みに値するくらいには評してもらったかもしれない。とにかくぼくにとっては、ぼくの文章の客観的評価の一つにはなり得ると思って、感謝したい。これも縁だと思って、いい気になる自分を許したいと思う。これから読書会で読む方の仲間だけでなく、書く方の仲間にも入れてもらえるように頑張りたいと思う。

hotepoque.hatenablog.com

公民館での読書会

これまで読んできた本の知識や物語や人生観などから影響を受けて、自分の考えが作られていると思う。誰それはこう言った、ということをいくつも挙げることができる物知りな人がいる。読んだ本の解説を述べて、お勧めの本を動画に上げているYoutuberも最近は出てきている。小説もエンターテイメントの一つとして面白く読めればいい、と考える人は多いと思う。ぼくは小説を娯楽の一つと割り切れない部類の人間だ。職業としてではなく、どうしても小説を書かないとおれない種類の人間にぼくは惹かれる。

「野露読書会」で当番になった時、コロンビアのノーベル賞作家ガルシア・マルケスの「予告された殺人の記録」を課題本に取り上げた。果たしてちゃんと読んできてくれるのかそもそも心配だった。これまで海外の小説を取り上げたことがなく、題名を聞いて「なんか恐そう」と言っていたお婆ちゃんもいたからだ。

80代のお爺ちゃんはちゃんと読んできていて、面白かったと言った。若い頃から本を読む習慣ができていると、現代の世界文学も読めることが分かった。彼は気さくで場を盛り上げることができる人だ。若い頃には「ファウスト」を読んで感銘を受けたらしい。全くインテリっぽいところがない、カラオケの持ち歌も多い楽しい爺さんだ。文学少女のまま知的好奇心を持ち続けているお婆ちゃんもいて、会の中心的な存在になっていた。彼女は源氏物語を読み通していて、日本の古典にも明るい感じがコメントからうかがえる。彼女はなんとマルケスの「大佐に手紙は来ない」も読んでいた。

この小説に出てくる求婚者の父のペドロニオ・サン・ロマン将軍はその「大佐」の敵側の将軍であることを指摘すると、ああそうなの、と興味深げだった。そのようにマルケスの小説は同じ登場人物が出てきて繋がっている「大小説」なんですと言い、これはバルザックの「人間喜劇」の手法を踏襲していて村上春樹もその意識があるみたいです、とぼくはちょっとばかり得意になって解説した。(バルザックは「谷間の百合」を読んだくらいなのに偉そうで反省している)

とにかく心配していたことはあまりなかった。というのはもっと欠席者が出ると思っていたのに、欠席は二名だけだった。

自分からの脱出

何を書きたいのかは分からない。自分で何処かに書いたことだが、定年の意味が川が河口から海に出るようなものという比喩が気に入っている。海に出たらいきなり茫漠とした果ての見えない環境に置かれる。当然ただ漂うしかない。どこかの時点で潮流にぶつかり、自然の流れに身を任すことになるだろう。どこへ運ばれていくのか?潮流というのは、影響を与える人のことだろう。無人島に流れつくかも知れない。何の情報もない、人工の施設も学校も病院も監獄もない。食っていくには原始人のように、狩や農業ができなくてはならない。無人島ではなく、原始人が住むような文明から閉ざされた島かも知れない。簡単に捕まって喰われるかも知れない。強くて逞しい自分をイメージできないので生き延びるのは無理だろう。

もし環境が変わらないとしたら自分が変わる必要があるだろう。齢とともにどんどん変化するだろう。人類の歴史を駆け足でくぐり抜けるような、創造的な学習に明け暮れるかも知れない。もう一度自分が関わって人類史をたどる旅に出かけるのも悪くない。若くないので実際にバックパッカーにはなれないが、想像力で旅をすることは可能だ。想像力はどこまで力を伸ばせるのだろうか?書かれた冒険本などを読むのは他人の追体験に過ぎない。自分自身で想像力を試す方法があるのだろうか?

やはり自分に返ってくる。誰かの想像力や思考力ではなく、自分の力を取り出すとしたら、どのような状況を設定すればいいのだろうか?ただの人に何ができるか、根本のところから始めてみたい。肩書きを持たない、資格も財産もない、才能などという恵まれた能力はなく、人生経験といえばサラリーマンを定年まで勤めたことぐらいしかない、人一倍の健康な体力とはいえない人並みの肉体はあるが、コミュニケーション能力は人並み以下だ。

これまでの自分から脱出するという挑戦ぐらいはできそうである。端的にいえば自分の過去をもう追わないことだ。今思いついたが、これまで読書を通じて他人の生き方や思想などはずっと批判を含めて学んできたと思う。一度、他人から離れてみようと思う。ヘーゲルからも離れよう。柄谷行人からも離れよう。小説を読むことからも離れよう。まだ見ぬ土地の人には近づこう。

いつものように書き出した

また思うがままに書こうとしている。変なことを書いてしまいそうだ。例えば、妻は女で自然に属するがぼくの方は人間には違いないが人工的な感じがする、といったことを。自分が自然のままにはどうしてもなれず、何かが頑なに邪魔をしている。世間体とか男らしさという具体的な規制ではない。例によって何となく感じるものだ。だからその正体を知りたくなる。

思想かもしれないと言ってみる。ぼくの中にこれまで影響されてきた思想家の言葉が沈殿していて、ぼくを縛っている。それがぼくを生身の男として成り立たせない気がする。とにかくそんな男なのだろう。思想というものに縛られていないと自分でない気がするのだ。めんどくさい奴なのだ。そんなぼくに妻は年がら年中付き合ってくれている。いやぼくの方も年がら年中めんどくさいわけではない。結構妻に合わせている。こないだなんか、一緒にテニスの交流会に参加して、合計6回セットをして4勝2敗だった。初めての経験だった。文字どうりパートナーを組んでゲームに勝つ経験をしたのは楽しかった。その時は思想は関係なかった。でも初めての機会を妻と一緒に持とうとした選択には、幾分思想らしきものはあったかも知れない。妻とではなく、別の女性と組むことも出来たからだ。

定年後の生活はとにかく妻と上手くやっていかなければ、Quarity of life に影響する。定年までは妻のことをあまり考えて来なかったという反省が、ある日突然に訪れた。何と言っても自分の仕事の事ばかり気にかけていた。今から思うと、ぼくのやって来た仕事なんてたいした意味はなかったのだ。

私またはぼくの誕生について

ブログに初めて私は、、、とか、ぼくは、、、とかで書き始めた時の新鮮な気持ちをブログを書いている人なら経験されていると思う。ブログじゃなくても実際は、小学校で絵日記や読書感想文などで「わたしは」とか「ぼくは」で書き始めているかもしれない。でも子供の「わたしは」や「ぼくは」には、主体の意識はなかったと思う。我思うゆえに我ありという感覚は、やはり孤独を経験した大人でなければ持てないのではないかと思われる。

でも他人のブログを読んでいて、あまり私やぼくはとはっきり主語から書いている人を見かけない。ネット環境では、自分を隠して言いたいことを吐き出している人の方が多いかもしれない。自分のことは棚に上げて言う方が無責任になれて気楽だからだろう。万が一攻撃されるのを避けたい気持ちもあるのかもしれない。

小説家にとって、私で書くか彼または彼女で書くか人称を使わず語り部のような黒子で書くかは大きな問題であろう。主観と客観という問題もある。自己と他者という問題もある。ぼくは小説家や評論家や研究者ではないのだから、それほど私という人称にこだわらなくてもいいのだが、それでもブログに書いている以上「私またはぼくの誕生について」考えてみたい。

ヘーゲルは終わってから始まると述べているが、それは終わらせてからでないと始まらないとも言える。ぼくがブログで初めて「ぼく」を登場させた時、何かが終わって何かが始まっていた。終わったのはそれまで送ってきた実人生の主語である自分であり、始まったのは実人生の中に「真実らしい」自分を発見して今を生き繋いでいこうとする自分である。今「主語」という言葉を使ってみたが、「私またはぼくの誕生」とは「主語」の誕生のことだったとはっきり分かった。この文法的に当たり前な「主語」の構造的意味が初めて自分の中に入ってきた気がする。「主語」という契機は、とても大事なことのように思えるが、これを読んでいただいているあなたはどうだろうか?

あの時代に吸収したものを今、調べていく

2023年に入って、改めてやりたいことを確認しておきたい。以前ブログに書いておいた世界と日本の芸術家や評論家の人たちの仕事を、定年退職後の今調べることだ。

ぼくが美大を受験する前の年は、県内でも進学校として知られる高校にもかかわらず美大に入学した先輩が14,5人いた時代だった。ほとんどがインダストリアルやコマーシャルデザインの方で、油や日本画や工芸の方には進まなかったように思う。(途中で転校した先輩もいたらしい)コマーシャルでも横尾忠則糸井重里のようなスターが活躍し始める頃で、社会の仕組みに取り込まれない暑い空気感も感じられた頃だった。ユーミン多摩美大、村上龍武蔵美出身で、必ずしも美大だから美術関係の進路に進むとは限らないのではあるが、地方の美大からでは、音楽や文学関係の進路に進むには才能が多方面に創発される刺激に乏しかったかもしれない。ぼくは受験選択を間違ったかもしれないという思いから自分を懐柔させる曖昧さに逃げ込んでからは、デザインに縛られずに、つまりはデザイナーの道を放棄して芸術一般のフリーパスポートを手にしたことにして、片っ端から興味のあるものをかじることにした。ジョン・ケージ高橋悠治の現代音楽を聴き、マルセル・デュシャンフランク・ステラやデ・クーニングなどの現代美術に触れるようになり、シュールレアリスムやロシアフォルマリズムの文学や美術「運動」というものにも興味を持った。針生一郎美術手帖に載っている評論家の論文にも刺激を受けていた。つまりはあの時代が吐き出して発散していたエネルギーを貪欲に吸収しようとしていた。その頃のぼくは心に飢餓を抱えていたので時代のカオスで満たす必要があったのだと、今では思っている。

小説を書くには

ひと世代上の小説家の先生から、小説を書いてみられてはと勧められたことをまともに受け取ってその気になっている。これまでも小説を書いてみようとしたことはある。その時に小説の書き方みたいな本を買い集めて読んでいた。読んだ順番に書き出すと、先ず丸山健二の「まだ見ぬ書き手へ」、次に三田誠広の「こころに効く小説の書き方」「天気の良い日は小説を書こう」「深くておいしい小説の書き方」、次にローレンス・ブロックの「Telling lies for fun & profit」、最後に島田雅彦の「小説作法ABC」である。村上春樹の「職業としての小説家」もこの部類に入るかもしれない。こうして並べると随分とあるが、ほとんど読み通していない。基本的にその頃は創作がどんなものか、興味本位に眺めていた程度だったと思う。書きたいという衝動には至っていなかった。小説を書くことの「中」に入っていなかったかもしれない。今は小説という表現空間に近づきつつある。何となく自分の内面に自分の分身が生まれそうな感じがある。その分身は同じく人間の全体性を備えている必要があるが、具体的な姿にはなっていない。自分から分離した、独立したキャラクターが設定されていない。どうすれば設定できるのだろう?本当はこれまで読んだ書き方の本の中にちゃんと書かれてあるのかもしれないが、そうすれば初めからまた読まなくてはならない。でも、島田雅彦の「小説作法ABC」に書かれてあったけれど、いくら書き方を学んでも小説が書けるとは限らない。丸山健二の「まだ見ぬ書き手へ」に書いてあったけれど、ともかく書いてみなくてはならない。

一つだけ言えることがある。小説をものすごく高級なものに考え、作家を必要以上に祭り上げて自分との距離を隔てるのはよくないと思う。そんなことしたら永遠に書けないだろう。ぼくは多くのことを知りすぎたかもしれない。小説の作法など知らずに書きたいように書けばいいのかもしれない。何も小説家になりたい訳ではない。そんなに小説家が魅力的で偉いとも思わない。思うのは自分と似たような人間を想像上でもいいから、生き生きと世界に登場させて自分の代わりに何かをさせたいということだ。何をさせたいだろうか?そもそも自分がやらなかったことを彼にさせることができるのだろうか?調べればできるとその先生は言った。それほど「調べる」というのはすごいことなのだ。今のぼくには、特定の人間の生涯とか業績とか性格とか思想とか背景とか時代とかを調べる情熱はない。ただ小説という世界の構造とか成り立ちの仕組みといった理論は知りたいと思う。ただし、自分という身体を離れた一般理論には興味がないということは経験上確かだ。島田雅彦の「小説作法ABC」には、一部そういうところがある。ローレンス・ブロックはあくまで自分の経験から述べて一般論にはいかない。その方が追体験がしやすい。

これはまだはっきりしていないので、もう一つ言えることとしてここで述べることはできない。確信になっていないのだが、言いたい気持ちがあってちょっとだけ書いておきたい。それはヘーゲルの数学に対する批判にあったのだが、数学はバラバラだというものだ。科学というものは哲学も含めて、あらゆる要素が全体につながっていて、孤立して存在することはできないというものだ。小説を書くということも、読むことや話すことや聞くこと、あるいは考えることや行動することと分離しない、ということだ。そして自分と他者、作者と読者もつながっているということだ。

定年退職後のこと

Kはサラリーマン人生を三十八年間送って、よく我慢し通したものだという以外に感慨がなかった。よかったのは厚生年金が少なくてももらえることだ。Kの妻の年金と合わせれば普通の生活がよっぽどの事故がない限り送れそうだった。その安心感は、今のKには精神的な財産だった。Kにとってサラリーマンは社畜であり、個人の能力というものは必要がない。社畜の能力だけがあればよいのだった。感性が敏感だと屈辱に身悶えすることになるから、Kはできるだけ鈍感になろうとさえした。給料の差や人事の不公平感に感情がとらわれたりすること自体が許せないので、鈍感になる方が手っ取り早いのだった。会社を辞める方が賢明だったかもしれないが、Kは器用な方ではなかったので面倒くさくなって流される方を結果的に選んでしまった。そしてますます社畜になっていくわけだが、強制収容所よりはマシだと思って耐えてきた。マシというのはわずかながら給料がもらえ、社会保険や定年までいれば退職金がもらえたことだ。だからできるだけ無個性で働くのと、少々の奴隷的な過酷な環境にも耐えられる肉体と精神があれば定年まで会社に居られるというわけだ。だが、会社を甘く見てはいけない。Kにとっては毎日が戦いだった。坂口安吾も書いていたが、一番悲惨なことは落伍者になって貧乏になることではなく、それによって自信を失うことだ、というのがKの信条だった。くたばらなければいいのだ。定年退職してようやく過酷な状態から解放されて息をできるようになった、というくらいにKは今を考えている。

 

白々と夜が明けて来る、薄暗い部屋の中で一人で過ごすひと時が始まる。一人の時間に満たされて、お湯を沸かしてコーヒーを淹れるだけのルーティンにさえKは気分がウキウキするのだった。新聞を読んだりテレビをつけたりなんかしたらぶち壊しだ。完全に外界から遮断されるから自由なのだ。寒くも暑くもなく、体温と空気が一体化して部屋の中に包まれている感覚がKは好きだった。ユリシーズの「塔」の中の活動的な朝の雰囲気をちらっと思い浮かべて、モリーがまだ寝ているように、ぼくの妻も寝ているとKは呟いてみる。耳を澄ますと窓ガラス越しに小鳥のさえずりが小さく聞こえている。まだ朝が始まらない。もう少しすると子供達が通学で、Kの家の周りを通り過ぎていく。斜め後ろのYさん宅は朝早くに出ていく。その車の音を妻はまどろみの中で聴くが決して起きようとしない。まどろんでいる時間が彼女には最高らしい。Kは目覚めて、そうっと起き出して、明かりをつけずに部屋の中にぼんやりしているのだった。二人で簡単な朝食を食べるまでの、何もしない時間をKは満喫している。

Kの人生は多少の振幅はあっても、今となっては良くも悪くもなく平凡そのものだった。だけど、平凡に満足するには非凡なものがいる。平凡な日常に満たされない思いが募ってくるのは致し方ないのだろう。昨日はまだ変化があった方だ。金沢の少し山の方に入った別所というところに美味しい蕎麦屋があって、昼は妻と一緒にKは手打ち蕎麦を食べた。Kは鴨南蛮でKの妻は山菜そばを注文した。鴨肉は六切れも入っていて柔らかだった。山菜は近くの山から採って来たものだと思われた。出汁が美味しく、湯飲みに蕎麦湯を足して二杯飲んだ。満足して出て、別所から犀川沿いの大桑にある「ぐるぐる広場」まで行って車を止め、犀川河川敷を散歩した。ランニングやウォーキングや散歩をする人にちょうど良い間隔ですれちがった。時間はゆっくり流れていた。一時間ほど散歩して、ケーキを買って帰宅した。ストロベリーパイをコーヒーと一緒に食べた。このストロベリーパイは、薄いパイ生地の上にのったジャム状より少し柔らかめのイチゴが、生クリームとよく合うので、いつも買っているものだ。こんな風に午後を過ごしたのに、Kは終わってしまうとなんだか満たされていないのに気づいた。「どうしてだろう。心が贅沢になってしまったのだろうか。」と呟いた。ドラマのような出来事がもどって来て欲しい、と思った。

あれはKが定年後のまだ何も起こらない日常に慣れていなかった頃だった。

 

最初はKから電話したのだった。職場にかけたのでほんの少ししか事務的に話しただけで、本当に話したかったことはメールにすることに決めていたような感じになった。その日の夜に携帯の番号にメールして、長いメールのためにお互いのパソコンのメールアドレスを教えあった。電話したのは昔をどうしても思い出したかったからだ。もう時効になって普通に話ができそうに思ったからだった。手紙ではないのでメールのやり取りは文通とは言わないのかもしれないが、彼女と一年くらい毎日のようにメールで文通していた。その頃、Kの母親が黄斑変性という目の病気で手術することになった前日、実家に泊まり込んだ時も携帯にKの母を気遣うメールをくれていて、その時のメールは心温まる親密なものになった。実際彼女のメールに書かれる言葉には熱がこもっていた。それは彼女自身の体温から来るもののように感じられた。

 

彼女はKが二十六の時に結婚を申し込んだ女性だった。高校三年の時のクラスメートで結局はKが振られてしまうが、東京と金沢で遠距離恋愛をしていたこともあった。今はもう四十年以上経っていて思い出のひとつにすぎないのだが、その女性の面影を通してK自身の青春を再発見し、もう一度架空の人生を構築してみたいという欲求が生まれたのだった。青春時の充実感を思い出すだけで再現は無理なわけで、所詮は無駄な努力になるのは分かっていた。けれど今問いかけてみると、無駄ではなかったという声が聞こえてくるのだった。全てが終わってみて、結局は彼女に逢うまでに進んでしまったことは必然だったように思える。確かにKの人生は自分に戻ってきたのだった。それほどサラリーマン生活というのは自分を殺して、自分を見失っていたということに彼女に逢ったことで気付かされた。彼女は長いブランクを感じさせず若々しかったし、青春の面影は残っていた。つまり変わらないものを持ち続けていた。それに触れられただけでもKは救われた想いがするのだった。

今から思えばあの時はタイミングが悪すぎた。というか、タイミングなどおかまいなしに一方的にぶつけただけだった。彼女にしてみれば高校卒業以来東京に出てKとは長らく離れていたのだから、そんなこと突然に言われてもKとの結婚なんて想像できなかったことだろう。その当時のKは何か精神的に追い詰められていた。結婚しなきゃいけないように思い込まされていたのだ。どうしてだろう。今ならいくらでも時間をかけてその理由を探れる。何しろ定年退職してから時間なら有り余るほどあるのだから。
もう少し時間をかけて、あの当時ゆっくり彼女と付き合っていたら違った人生が送れたのじゃないかという思いつきが、結婚を申し込んでから三十九年後に、結婚して長男がもう成人になっている彼女の職場に大胆にも電話をかけさせたのだった。それはKの妻には内緒にしていた。妻はまだ定年前で働いていた。妻が会社にいる間はKは一人で自分の青春を振り返ろうとしていたのだ。

妻に内緒にしていたのはよくなかった。別に話しておいてもよかったのだ。金沢での同窓会の時に昔を思い出して懐かしくなって、今度東京で同窓会があるらしいくらいのことを話してもおいてもよかったかもしれない。しかしKの妻の性格だったらわざわざ東京の同窓会なんかにいく必要はない、とにべもなく宣告すると思える。Kの妻の勘は本能と結びついているので、Kに後ろめたいものを感じると何かあると気づいてしまうのだ。そしてKは確かに東京に行く時後ろめたさを感じていた。でもあの時は定年後の空白感に苛まれていたこともあり、K自身の企ての方が優っていた。

 

定年退職して居場所がなく自分がどこに居たらいいか分からなくなった時、青春に帰る選択は正しかったように思えた。おそらくKと同じようにサラリーマンだった人は、会社という組織を個人より優先させ、代わりはいくらもいるぞと脅されながら頑張ってきたと思う。自分がすでに自分にとって他人になってしまっていたという感覚にほとんどの人は気がついていない。Kにはそれが分かった。どうしてそのことがKに分かるかというと、自分の企てが招いた最悪の事態を経験して、自分が大切にされたことがわかったからだ。長い長いあいだ、ずっと自分が大切にされずにきていたことに気づいたのは、幸いなことに思いがけなく自分が大切にされたからだった。一人の人間として、一人の男として受け止められること。二人の女性を苦しめたことでやっと分かったのだ。自分のために苦しんでくれたことが分かった時、どうしようもない愛しさと同時に嬉しさが湧いてきて、Kはどんな仕打ちも罰も喜んで耐え忍ぶことができた。兎にも角にも感情はそれを求め、Kが与えてしまった傷はKのものだったから、、、

実人生と書かれた人生

人生を二度生きる。一度は実人生で、二度目は書かれた人生だ。実人生を書いて思考上の空間で再現された「人生」を生きることをやってみたい。と言うか、実際このブログで断片的にやってきている。実人生の中に隠れている流れの源流は、社会に出るまでの主として大学時代に作られたと思える。高校は進学校だったが文系を選択し、大学は地元の美術大学に入学した。家は経済的に余裕があったわけではなかったので、東京へ出ることはなく私立ではなく公立だった。医師や弁護士や教師という明確な進路は描けなかった。何となくデザイナーだったら仕事に就けそうだったので、美大にしたのだが、デザイナーでやっていくには東京に出る方がチャンスに恵まれることははっきりしていた。つまり職業で成功する道は、経済上と職業特性から初めから諦めていた節がある。そういう出発点を持ったということが、その後の実人生の軌道に大きく影響したと思える。言ってみれば、デザイナーとしては初めから二流か三流の道を覚悟していたわけだ。そうすると必然的に仕事はそこそこに平凡にやって、仕事以外に生きがいを見出す必要があった。それが文学の道なのだが、小説家も批評家も研究者もその道はそれぞれに茨の道だ。まず研究者は文学部のある大学に行く必要がある。実は美大に入ってから金沢大学に入学し直そうと試みてみたことがあったが、金沢大学は浪人しても受かる学力はなかったと思う。小説家や批評家になるには文芸誌の新人賞に挑戦しなければならないが、そのための文芸修行は、デザイナーとして採用された会社に入ってみると想像以上に孤独な闘いが必要になった。入社1年目に辻邦生の「背教者ユリアヌス」や、埴谷雄高の「闇の中の黒い馬」と「死霊」を読んでからその後が続かなかった。二、三年して行き詰ってしまった。ここで自分で描いた生き方が破産したといっていい。会社を辞めて文芸修行ができる環境を求めて就職しない生き方をするか、文学の道を諦めて趣味にとどめて「退却」するかを選択しなければならなかった。しかし実際は、仕事で二流か三流のデザイナーで、趣味で小説を細く長く読み続ける楽な生き方に、はっきり決断することなく流れていくことになった。このように書いていると楽な生き方に思えるが、仕事で満足が得ることがないと趣味にも打ち込む元気がなくなるものである。仕事で二流となるばかりでなく、生き方そのものが二流になっていた。そのころしばらく悩み続けた結果体を動かすことを考え、趣味を読書からスポーツに転じ、テニスに打ち込むようになる。それはそれで楽しく元気な自分を取り戻すことができた。そして元気になると、仕事の方も二流なりに頑張りだして自分の客を作ることに自分の能力を発揮しようと前向きになった。ここからは当初描いていた生き方が修正されて、仕事に生きがいを見出そうとする方向に向き始めた。ここで修正されたことがもう一つある。デザイナーは東京に出ないと仕事で成功しないと思い込んでいたが、地方で二流であってもデザインの取り組み次第でいい仕事もできるという考え方に変わったのだ。東京と地方という軸で東京だけが中心という考え方は不当であって、地方にいて地方から開かれる自律的なデザインも考えられるという思考法になった。そのように意識を転換できた背景には、そのころ始まったインターネットの普及というデジタル環境があったと思われる。