開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

I got diarrhea

今日いつものように午前中パソコンに向かっていると、お腹の具合が徐々に悪くなりだして久しぶりに下痢になってしまった。多分部屋が寒くて下半身を冷やしてしまったからだろう。下痢は英語でdiarrheaという。ぼくには耳慣れない単語だった。ここに書いて覚えるようにしたい。ダァイヤリィアと発音して「ダ」と「リ」にアクセントがある。ごく普通のよくある症状だけど、英語では馴染みがない。自分で書いて発音して自分の体に馴染ませるのいい。頭に記憶させるだけではすぐに忘れる。一昨日のブログでbecoming familiar withで英語を馴染むのがいいと書いたが、familiarよりもっと馴染ませるという英語はないのだろうか?唯識に薫習という言葉があるが、香りを衣に滲ませるように覚えさせるという意味なのであるが、どう英訳されるのだろうか?脳に染み渡るように英語を「注入」したいと思う。繰り返すしかないとも言えるが、もっと深く感じる方法がないものかと思う。英語の歌詞を味わうのがいいかもしれない。とにかく、今から英語を勉強するのは、子供が自然に言葉を覚えるメカニズムとは違った大人のメカニズムでなくてはならないと予てから思っていたら、我が意を得たりと思えるサイトに出会った。英語を話すためには理論が不可欠とする、NCC綜合英語学院の教育法だ。

www.ncc-g.com

自分に架けられている謎とは

ほんの微かな力の芽生えを体内に感じている。こんなことはもうこの歳になってからは感じたことがない性質のものだ。それを突き止めてみたくて書き出したのだが、何かを書きたいという意欲も「その中」にある。書き出すと止まらない感じも少し感じる。心に移りゆくよしなし事を書き綴ればあやしゅうこそ物狂おしけれ、という感じとも言えるかもしれない。原因はわからない。急に湧いてきたのだ。夕方スーパーマーケットの駐車場で車の中にいた時だった。その感じに気づいたのは、周りの風景がいつもより生き生きと感じられたからだ。サラリーマンの時の、仕事の合間のひと時のようなリラックスした状態のように思われた。時が戻ったような不思議な感じだった。あの時、漠然と自分の来し方行く末を考えていて、自分の人生が目の前に広がって自分が車の運転席で映画を見るような姿勢になっていたように思う。映画の登場人物になって風景の中に入っていって、今のぼくとは違う生活を始めている、、、ぼくはまだ若い。これまで自分の青春の頃を回想して、忘れていた一場面を思い出したりはしていた。それは過去にいた自分だった。でも今感じたのは、過去の自分とは違って何も経験していない場面に出くわそうとしている。まるっきりもう一人の自分だ。新しい自分の「生」だ。、、、そうだった。思い出したことがあった。このブログにも書いたことがある。英語だ。英語で別人格になるという無謀な目標を立てたことを思い出した。この前から和文英訳を集中してやっていた。ぼくはできるだけその和文の作成者に自分を合わせようとしていた。自分が発した言葉のように思い込んで、答えの英文も自分の英語のように感じようとしていた。そのpracticeのおかげで少し頭の中が変化したかもしれない、、、。でも今のところその男は自分に似ているから日本人だ。職業は探偵のようなことをしているみたいだ。社会の裏にも通じていて、情報提供者も何人かいるようだ。探偵だとしたら依頼人がいるはずだが、彼は直接には誰だか分からない。何人も間にいて誰かは分からないようにされている。さて、どんな依頼が来ているのだろうか、、、

久しぶりの[公論]

以下は俳愚人さんが自身のブログに備忘録として転記掲載されたものだ。私も同じくこの国の現実を忘れないために(重要性に鑑み)無断掲載させていただいた。

「菅退陣」に追い込んだ厚労省「医系技官」/医療ガバナンス研究所 上昌広 コロナ対策の迷走は、日本社会の劣化を白日の下に晒した。今や指導層のメンタリティは、国家権力に阿る「奴隷」だ。

2021年10月号 DEEP [物言えば唇寒し]
by 上昌広(医療ガバナンス研究所理事長)

「医系技官の牙城」厚生労働省(東京・霞が関

9月3日、菅義偉首相が退陣を表明した。マスコミは「コロナ禍迷走一年」(読売新聞9月4日)と対応を批判し、その理由として「専門家の懸念や閣僚の進言を無視」し「トップダウンを多用」(いずれも朝日新聞、同日)したことを挙げる。

筆者は、このような論調に違和感を覚える。厚労省でコロナ対応を仕切る医系技官や新型コロナ感染症対策分科会の尾身茂氏などの専門家の対応を見れば、菅総理ならずとも不安になる。なぜ、総理は専門家の声に耳を傾けなかったのか――。この点を十分に論議しなければ、菅首相退陣の真相は見えてこない。

「日本人であることが嫌になった」

尾身茂理事長

私は、菅総理が専門家の声に耳を傾けなかったのは、彼らを信頼していなかったからだと考えている。9月5日のパラリンピック閉会式で映し出されたパリ市民はマスクなしで、大はしゃぎだった。

なぜ、感染者数が約2倍(人口比)、死者数が3.6倍のフランスで制限が緩和され、日本では「ロックダウンみたいなことを法制化してくださいというようなことさえ議論してもらう」(尾身氏、8月5日)」や「(ワクチン接種が進んでも)会食制限・マスク今後も」(朝日新聞9月7日)となるのだろう。

日本の専門家は疑問符だらけだ。最大の問題は科学を軽視することだ。例えば、コロナ流行当初から、PCR検査を抑制し続けている。9月2日現在の人口1千人当たりの検査数は1.0件。主要先進7カ国で最下位だ。トップの英国(12.3件)とは比べものにならない。コロナは感染しても無症状の人が多く、彼らが周囲にうつすのだから、検査数は増やすべきだ。日本だけが、なぜか例外だ。

昨年8月まで、医系技官のトップとして、コロナ対応を仕切った鈴木康裕前医務技監は、「陽性と結果が出たからといって、本当に感染しているかを意味しない」とし、その理由として「死骸が残っていて、それに反応する」(毎日新聞、昨年10月24日)」こともあると説明し、擬陽性の頻度を、医療業界誌のインタビューで1%と仮定している。

これは、いつの時代の議論だろうか。ゲノム医学の進歩は急速だ。1990年に始まったヒトゲノムプロジェクトは、ヒト一人のゲノムを読み切るのに13年を要したが、今や数時間だ。コストは約3千億円から数万円まで低下した。この間、PCR検査などのテクノロジーも急速に進歩した。適切に条件設定すれば、人為的エラー以外に偽陽性はまず生じない。

世界は、最新技術をコロナ対応に適用している。7月、南京でデルタ株の感染者が確認されると、中国政府は約1800万人の住民に対し、1カ月の間に3回PCR検査を実施し、約1200人の感染者を確認した。感染者や接触者を隔離し、7月22日には感染者はゼロとなった。これが最新の科学だ。

中国はゲノム研究の領域で世界をリードする存在だ。深圳に本社をおくBGIグループは、世界最大のゲノム解析集団だ。昨年1月中国がコロナゲノムを解読した際には、同社の科学者が参加しており、流行開始から半年で世界180カ国に3500万セットの検査キットを販売した。日本のような議論はない。

このような状況を知ると、筆者は司馬遼太郎を思い出す。晩年、司馬はノモンハン事件を題材にした小説の執筆を考えていたが、取材を続ければ続けるほど「日本人であることが嫌になった」と断念した。日露戦争の成功体験に酔いしれ、組織や兵器を近代化することなく、無惨な肉弾戦で大敗した。その敗北を隠蔽し、精神論を振りかざし、挙げ句の果てが敗戦だ。私にはコロナ専門家と被って見える。中途半端な知識をひけらかし、検査を抑制した。コロナが蔓延するや、若者の行動や飲食店を槍玉に挙げ、人流抑制を求め、ロックダウンまで言い出した。

JCHO東京新宿メディカルセンター

軍幹部とコロナ専門家に共通するのは無責任だ。例えば、尾身氏は元医系技官で、独立行政法人地域医療機能推進機構(JCHO)の理事長を7年間務めている。JCHOは社会保険病院や厚生年金病院の後継機関だ。社会保険庁の年金不祥事の際に、一旦は民営化が決まったが、最終的に独法となった。公衆衛生危機に対応することが、設置根拠法で義務付けられ、発足時には土地・建物は無償で供与され、854億円の政府拠出金まで提供されている。法人住民税などは免税だ。

では、JCHOは、どの程度の患者を受け入れているのだろう。尾身氏は、「最大限やっている」と説明してきたが、実態は異なる。JCHOは、都内に5つの病院を有し、総病床数は1532床だ。このうちコロナ病床は158床で、全体の10.3%だ。8月6日現在の受け入れは111人でコロナ病床稼働率は70%、総病床の7.2%に過ぎない。組織の設立主旨(公衆衛生危機対応)を考えれば、全病床をコロナ病床に転換してもおかしくない。そうすれば、都内の病床不足の問題は、あらかた解決する。

有価証券運用に余念がない「JCHO」

不甲斐ない田村憲久厚労相         Photo:Jiji Press

JCHOは本来、患者受け入れの中心的役割を果たすべき組織だ。ところが、尾身氏や厚労省は、最初からそのつもりはなかったようだ。5月11日、田村厚労大臣は、JCHOなど4つの組織が協力し、105人の看護師を医療逼迫地域に派遣すると発表した。コロナ患者の診療は手がかかる。JCHOが中心的役割を担うなら、医療従事者の派遣ではなく、自らの施設にコロナ病床を確保しなければならない。都内のJCHOの病院が、アルバイトでもいいから医師や看護師をかき集めているという話は、寡聞にして聞かない。

一方、補助金は受け取った。20年度の総額は324億円で、前年度から194億円増だ。コロナ名目235億円のうち、195億円は収益として計上されている。JCHOの現預金は688億円、前年度から有価証券を130億円買い増し、運用に余念がない。こうした振る舞いは、誰が見てもおかしい。

詰まるところ菅首相は、彼らの暴走を食い止められず、退陣に追い込まれた。なぜだろう。コロナ問題の本質は、まさにこの点にある。一国の総理大臣をしても、厚労省や専門家を制御できないのだ。

筆者は、民主主義の根幹である権力の相互チェックシステムの機能不全が原因と考えている。西側先進国は、立法、司法、行政の三権が分立し、さらにメディアやアカデミアが監視することで、権力の暴走を抑止することを、社会の基本構造にしている。なぜ、このシステムが、医系技官や尾身氏に対して機能しなかったのだろうか。それは、立法府はもとよりメディアとアカデミアの劣化が著しいからだ。これこそが、安倍・菅政権の弊害だ。

まずは立法府、つまり政治家だ。コロナ対策には、医学や公衆衛生に関する専門知識が必要だ。感染症法、検疫法を所管する厚労省の医系技官が中心的な役割を果たすことになる。問題は、彼らが間違えた時だ。彼らと対等に議論し、方向修正できる政治家は限られている。その代表は、09年の新型インフルエンザ流行時に厚労大臣を務めた舛添要一氏だ。東京大学助教授時代の教え子を中心に「チームB」を組織し、医系技官や専門家と議論させ、海外ワクチンの導入など軌道修正に成功した。

かつての自民党には、舛添氏に限らず、厚労行政に通暁した「族議員」が多数いた。今回のコロナ流行で、厚労省に異議を唱えたのも、そのような議員たちだ。その代表が、自民党行革本部長として、国の責務の明確化、指揮命令系統の一本化から、PCR検査の拡充や公的医療機関への重症・中等症患者の選択と集中を訴えた塩崎恭久・元厚労大臣だ。

今年1月の緊急事態宣言発令時には、国公立病院の対応を問題視し、自身のメルマガで「今でも法的に厚労大臣が有事の要求ができる国立国際医療研究センターが重症患者をたった一人しか受けていない状態を放置している事の方が問題だ」と批判した。国公立病院の患者受け入れ状況は公表されておらず、塩崎氏のメルマガに関係者は衝撃を受けた。これは、議会が政府をチェックした一例だが、官邸強化を推し進めてきた安倍・菅政権で、医療行政に通じた国会議員は力を失った。次の総選挙では、塩崎氏をはじめ多くの「族議員」が引退する。

野党の地盤沈下も著しい。09年には、民主党(当時)の長妻昭議員らが社会保険庁の問題を糾弾し、政権交代へと導いた。民主党で医療政策をリードした故仙谷由人氏は、厚労省傘下の研究機関のあり方を問題視し、政権交代後は行政刷新担当大臣として、国立がん研究センターなどの独法化を主導した。現在、問題となっているJCHOは、社会保険庁が所管する組織が経営した病院群を母体としている。ところが、立憲民主党がJCHO問題を、国会で追及したという話は聞かない。旧自治労系の労働組合の存在が影響しているのだろうか。国民の命と健康より支持母体に配慮しているのなら、彼らの支持率が上がらないのも納得がいく。

突破口開いた朝日新聞の松浦記者

政治が機能不全なら、メディアが頑張るしかない。悲しいかな、こちらも問題だらけだ。第二次安倍政権以降、政府はメディア統制を進めてきた。コロナ報道でも、政府への忖度には目に余るものがある。象徴的なケースをご紹介しよう。それは、朝日新聞が9月2日夕刊に掲載した「コロナ病床、国管轄病院は?受け入れ数%、都内1カ所は専用に」という松浦新記者の記事だ。8月19日に朝日新聞デジタルに掲載された記事の転載だ。なぜ、紙面に掲載するまでに、2週間もかかったのか。

注目すべきは、8月20日厚労省閣議後記者会見でのやりとりだ。松浦記者が、JCHOなどの独法に対して法に基づき、患者受け入れを要請する予定はあるかと質問したところ、田村厚労大臣は「法律というのは何の法律ですか。医療法、感染症法ですか」と聞き返した。この回答により、厚労大臣がJCHOの設置根拠法に規定された法的スキームを理解していないことが判明した。厚労官僚が大臣にまともな説明をしていないことがバレてしまった。

厚労省内は騒然となった」(関係者)。急遽JCHOは9月から、傘下の東京城東病院で約50床をコロナ専用病床に転換することを決定するドタバタ劇を演じた。

田村厚労大臣の発言は、厚労省の不作為を「証明」しており、国民に広く伝えるべきだ。ところが、朝日新聞は、この事実を報じなかった。松浦記者が、この件を発表したのは8月23日の東洋経済オンラインだ。9月1日には系列の朝日新聞出版が運営するアエラ・ドットでも、吉崎洋夫記者による「コロナ病床30~50%に空き、尾身茂氏が理事長の公的病院132億円の補助金『ぼったくり』」という記事が掲載され、アクセス数はトップだった。朝日新聞が紙面に掲載したのは、その翌日だ。

コロナ政策の方向転換には、世論の支持が欠かせない。そのためには正確な事実を国民と共有しなければならない。メディアが果たすべき役割は大きい。政府寄りの姿勢が明白な読売新聞とは対照的に、朝日新聞は政府を監視し、日本のリベラルな世論をリードしてきた。私は朝日新聞に大いに期待している。 ところが、この有り様だ。厚労省に忖度し「新型コロナ感染症対策分科会委員」や「厚労省研究班」など、厚労省お抱えの専門家の発言ばかり報ずるのではなく、自ら取材した事実に基づき、当局が報じられたくない真実を、国民の前に示して欲しい。

「コロナ流行」は医系技官に追い風

最後にアカデミズムについても言及したい。菅政権のコロナ政策をリードしている専門家は、尾身氏と岡部信彦・川崎市健康安全研究所長だろう。尾身氏については改めて論ずるまでもない。

岡部氏は国立感染症研究所OBで、菅政権で内閣官房参与に起用された。岡部氏は、流行当初から、PCR抑制を主導してきた。彼が検査拡大に反対した理由は、民間に拡大した場合の精度管理を問題視したからで「行政検査の場合は、熟練した職員がきちんと標準化された試薬と器材を使って、精度管理も定期的に行っています」「精度管理は検査する側が責任を持ってやるべきです。つまり、一定のレベルを保ちながら数をこなして欲しい」などと発言している。

筆者は、この主張を聞いて驚いた。保健所の現場で働く医師から聞いている話と全く異なるからだ。私が編集人を務めるメルマガ「MRIC」には保健所長からも寄稿があり「精度管理自体がかなり怪しかった」「(検査エラーによる)明らかな擬陽性であるにもかかわらず、行政検査の無謬性をたてに絶対にそれを撤回せず、現場を混乱させた」と、現状のありのままを訴えている。保健所や地方衛生研究所は、検査センターではない。このような小規模施設が分担して、大量の検査をするのは、世界標準とはかけ離れている。

中村祐輔・東京大学名誉教授は「(検体採取以外の)工程はすべてロボットで自動化できる。(中略)集約すればいい。いまだに『手作業で大変だ』と言っていたら、世界から笑われる」と指摘する。前述の中国・南京は、こうやって大量のサンプルを短期間にさばいた。中村氏は、昨年、米国メディアが「ノーベル生理学・医学賞候補」と報じたゲノム医学の泰斗だ。岡部氏といずれが説得力があるか、言うまでもないだろう。

なぜ、岡部氏は、こんな発言をするのか。もちろん利権だ。そもそも保健所長は医系技官が座るポスト。岡部氏が所長を務める川崎市健康安全研究所は、地方衛生研究所の一つで、その所長ポストは、感染研幹部の天下り先だ。地衛研の問題は設立基盤が弱いこと。設置の根拠は1997年の厚生事務次官通知にすぎず、自治体に設置義務はない。コロナのような法定感染症は、保健所が積極的疫学調査の実施主体となることが感染症法で規定されている。即ち検査を独占することが、カネとポストに繋がる。岡部氏をはじめとした専門家たちは、クラスター対策や保健所の体制強化、地衛研の法定化を求めてきた。「コロナ流行」は追い風なのだ。

世界で、こんなことをしている国はないし、感染研・保健所の独占体制を維持する限り、いつまで経っても検査数は増えない。この程度のことは、専門家なら誰でもわかる。アカデミアの問題は、ダンマリを決め込んでいることだ。

学術会議問題に象徴されるように、9年間にわたる安倍・菅政権で国家統制が強化されたことが大きく影響しているのだろうが、それではあまりにも情けない。

コロナ対策の迷走は、日本社会の劣化を白日の下に晒した。物言えば唇寒し。今や指導層のメンタリティは、国家権力に阿る「奴隷」だ。これで衰退しないはずはない。いま、問われているのは、日本人の矜持である。

著者プロフィール
上昌広

上昌広(かみまさひろ)

医療ガバナンス研究所理事長

1968年兵庫県生まれ。特定非営利活動法人「医療ガバナンス研究所」理事長 東大医学部卒、医師。2016年まで東大医科学研究所特任教授を務める。専門は血液・腫瘍内科学、真菌感染症学、メディカルネットワーク論。

(「菅退陣」に追い込んだ厚労省「医系技官」/医療ガバナンス研究所 上昌広:FACTA ONLINE)

becoming familiar with

becoming familiar with 〜は、〜に精通することとgoogle翻訳に出てくる。becoming friendlier with 〜だと、〜に親しくなると出てくる。friendlierに「分かりやすい」という訳語もあった。友達のようにではまだ親しさが足りず、家族のようになって何でも知り合うから「精通する」となるのかな、と勝手に解釈してみる。「精通する」と「親しくなる」では知り合う度合いが大きく違う印象がある。日本語にも精通している米国人だったらどう思うだろうか?

英語に興味を持ち出したのはいつ頃だろう。今年の1月25日のブログに英語に馴染むと題して書いたものがあったので、今年に入ってからという事になる。割と最近のことで少し意外な感じがした。そこにはenglish nerdになるという発想が書かれてある。今更英検とかTOEICを受けてマスターしようとは考えられなかったので、苦し紛れにenglish nerdになってやろうと考えたのだった。今思うとそれはそもそも間違いの元になる考えだ。自分なりに興味のままに英語を勉強したら、変人になるだけだろう。ただ一つだけその方法にいいところがあるとしたら、英語に親しくなってオタクになるほどマニアックな熱情が身につくことだ。熱情こそ定年後のぼくの人生に欲しいものだ。英語学習で熱狂できるとしたら素晴らしいことではなかろうか?しばらくその熱狂を育てたいと思う。小説読みをセーブしてまでも。

歴史の時間性を尺度に考えてみる

今日久しぶりにテニスに来てた仲間がいて、最近何をしていたかの話になって、ぼくは能登町真脇遺跡に行ってきた話をした。縄文時代の遺跡でそのほかの遺跡に見られない貴重なものが出土して博物館に収められていた。殆どが1万年前のものらしい。たかだか紀元2000年ほどの歴史に文献などを手掛かりに学校で教えられてきたが、その5倍もの昔に人々が船を作り、銛や槍などを使ってクジラやイルカを獲って食べていたらしい。十分漁ができていたので定住していたのだった。縄文時代は狩猟していたので定住せず転々としていたと学校では習ったはず。ところが縄文時代でも定住していたことが真脇遺跡で明らかになった。そのことをそのテニス仲間の彼に強調してみたが、学校で習ったことをそもそも忘れているみたいで反応が薄かった。歴史に興味がない人に話してしまって少し気落ちしたが、弥生時代に稲作を始めると定住が始まったというのは常識化していると思っていたがそうでもないらしい。ぼくとしてはこの1万年という時間がこの石川県の能登町という場所に蓄積されているという、歴史の事実に小さな啓示を受けるのだが、、、人間の営みを歴史的時間を尺度に考えてみると、先の大戦や近代というものが割と新しい出来事のように思えるのだが、そう思うと歴史を学ぶことに尽きない興味を覚える。NHKブラタモリが人気なのも、現代が「新しい中世」の時代に入っているという田中明彦の説も、歴史的時間が教養の対象になってきているのかもしれないと思った。

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あなたはどちらの共感が強いですか

It is easier to sympathize with sorrow than to sympathize with joy.

最近また英語学習に目覚めてきて、たまたまこのphrasesに目が止まった。悲しみに共感するのは、喜びに共感するより容易いというのだ。確かにそうは言えると思う。なぜなら、悲しみに共感するのは自分を変化(前進)させなくてもいいからだ。悲しんだからといって、その人に援助するかといえば殆どしないと思う。自分とその人の物理的な距離は隔たったままのことが多い。精神的には一時共有されるかもしれないが、長続きしないだろう。喜びに共感する方は、嫉妬と闘わなければならない場合がある。純粋にその人の喜びに共感した後、自分とその人の隔たりに意識が行くと自分が小さく見え自分の無力感を感じるかもしれない。その人の喜びに自分も共感して自分もその人のように頑張りたいと思うのであれば、自分は成長できるだろう。つまり現状の自分を向上させるために自分を変えようとするだろう。

話はこれで終わってのいいのだが、例えば、仏陀やキリストやアインシュタインのような偉人になると、悲しみへの共感の方が自分を変えるのではないかと思えたことも付け加えたくなった。もともと王子で富者だった仏陀が抱いた悲しみは、一大宗教家に変化させた。アインシュタイン原子力を兵器に利用されたために起こされた戦争の悲惨に、深く動かされたはずだ。喜びへの共感より悲しみへの共感の方が偉大だったと言えるかもしれない。私はといえば小心者なので、偉人たちとは別次元で悲しみに共感する方が多い。というか、世の中の悲惨さの方に心が向いてしまう。しかし、最近になって喜びに共感する方を意識的に増やそうとしている。資本主義の良い面にも心を開こうと(批判は必要だが)思っている。資本そのものは悪くないと、山本哲士氏から教わったからだ。

自分と「同じ」があるもの

今日このタイトルで書こうとすることは、ぼくが集中力を持って取り組める条件についてだ。この条件を外すと途端に力が抜け、ぼんやりとして一人取り残されたような虚しい気持ちになる。自信に満ちている時と、気弱になっている時の違いは何なのかと探っているうちに気付いた事柄である。だからぼくにとっては重要な気づきになる。、、、もったいぶらないで結論を言おう。結論は、自分と同じ要素が相手や対象の能力にあると感じたらOKというものだ。

具体的にいうと例えば、テニス教室でこれまで数人のコーチについて習っているが、現在のコーチは自分と「同じ」と思えるところが複数あった。あまり大声で話さなかったり、ほとんど怒ったことがないとか、一言で修正すべきところを指摘してくれる、というようなことだ。あまり一般的なことを言われてもこちらに入って来ない。しかし要所をズバッと言って、それにこだわって何とかやっているうちに解決したりする。そんなことが重なるとこちらは相手にリスペクトを抱く。

英語はコーチはいないが、独学ではあっても自分と相性の良さそうな人から学んでいる気がしている。随分とその師は変わってきている。まだ誰ともピッタリとした感じがつかめてないのは、自分と「同じ」ものがその先生に感じられないからだと思える。あまり一般的だとやはり飽きてくる。英語は特にモチベーションの維持が難しい。例えば、英語は英語で考えろと言ったりする。しかし長年日本語で考えているわけだから、考えるのはあくまで日本語だと思う。英語と日本語の違いを日本語で徹底的に考えて、それで英語の独特の思考法を英語で分かるようになりたい。reading,writing,speaking,listeningのうち最初はlisteningだと思っていた。まず相手の言うことが聞き取れなければ始まらないと考えたからだ。しかし喋ったことのない言葉は聞き取れないし、意味のわからない言葉は音だけの記号にすぎず耳にそもそも引っかからない。やはり1語1語の言葉を覚えていくしかないのかと思って、ボキャブラリーを増やそうと暗記しても、あまりの単調さに飽きてしまう。ぼくは今のところ和文英訳とか英作文にきっかけがありそうだと思っている。まず日本語と英語の違いが瞬時に分かるからだ。英語を読むだけでは違いはあまり意識されない。読むのは何となく英語のまま理解することもできそうな気がするが、書いたり話したりする時は英語独特の言い回しを引き出して来なくてはならない。変な言い方だが、英作文の方がやはり英語を意識する。(読んでいる間は自分が「外」に立つことはない。)どこかの有名な塾の先生がactiveとpassiveに単語を分けて単語帳を作っているらしいが、activeの方が実践的で手応えがあるように思う。英作文の方が実践的だと思う。英語を書いたり話したりする自分をイメージして英語を習得したいと思う。

初期高齢者の自閉症

今日は午前中に柳沢先生の万葉集講義を受けに行き、午後からは母を川北整形外科に連れて行って、その後買い物にスーパーに寄って実家まで送り届けた。ここの所火曜日は毎週その繰り返しになっている。夕方から夜までは自由な時間だ。自分の時間になると閉じ篭りたくなる。初期高齢者の自閉症だ。でも幸い独居老人からは免れている。自分が一番自分らしかった頃に戻りたくなる。1968年から1973年ごろまでの自分の内外世界を心の中に再現してみたくなる。記憶と想像力を頼りにして、面影と雰囲気を頼りにして、媒体となるPOPSや本や、社会的事件や歴史的変動をきっかけとして、しばし夢想のひと時を過ごす。いつも一人ぼっちだったけれど、その頃は孤立感は無かった。むしろ幸福感の中にいた。トルストイやヘッセやロマンロランに親しんでいたのに、急にマルクスにまで飛んでしまった。おそらく影響されやすい性格なのだろう。時代の空気がそういう流れだった。友達の家にマイルス・デイビスのLPを持って行って自慢のコンポで聴いていると、友達のお兄さんが来て、サルトルの「自由への道」を読めとひとくさりオルグ口調で話していったりした。ぼくと友達はビートルズの音楽性は国境を越えるみたいな話で対抗したりした。その頃将来の自分の人生をどのように描いていたのだろうか?具体性は全く無かった。とにかく大学に行ってただ漂うだけの未来しか自分には無かった。

自分を好きになること

瀬戸内寂聴は、人生相談で自分を好きになることを勧めている。そう言えば、ぼくも自分が好きな方だと思うが、サラリーマンだった時は自分が好きになれなかった。というか自分が無かった。自分を肩書きや会社の中の役割として捉えていた。特に自信がない時の自分は好きになれなかった。定年退職後、自分を好きになれたのは、ある人から好かれる部分が自分にあると教えられてからだ。それは就職するずっと前の自分だった。

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Jean Philippe Rameau Six concerts en Sextuor

男が泣くのを見っともないと感じる文化は室町時代からだという。平安時代は男が泣くのは好ましいとされた。光源氏なんかはいつも泣いている、という印象だ。ぼくはこの曲を聴くとその可愛らしさに涙ぐんでしまう。多分曲のせいだと思う。

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Unyielding to Rain

9月15日のブログで、ドリアン助川氏の絶叫するような「雨ニモマケズ」を紹介したが、英訳の出ている記事を見つけたので、英語を体に馴染ませようと思う。暗記のために掲載した。(「four go」は「4合」のこと。「木偶の坊」は a blockheadと訳されている。)

Unyielding to rain,

Unyielding to wind,

Unyielding to  snow or summer heat

_____Such a strong body has he.

Not gluttonous,

Never angry.

Always he is smiling gentry.

Daily he eats four go of unpolished rice, 

Bean paste  and a little vegetable.

Disregarding his own ego,

He is attentive

To everything, understands

And never forgets.

He lives in a small thatched hut

In the pine forest upon a field.

Should there be an ailing child in the east,

He will go and attend to him.

Should there be a tired mother in the west, 

He will shoulder bundles of rice crops for her.

Should there be a dying man in the south,

He will go and tell him not to be afraid.

Should there be quarrels and lawsuits in the north,

He will tell them to stop doing foolish things.

At the time of drought he sheds his tears.

In a summer of unusual chill he is beside himself.

Dismissed as a blockhead by people around him,

He is neither praised

Nor complaind about.

I want to be 

Such a man as he. 

英語で自分の性格診断をしてみた

内気な性格の人を英語で introvert という。この前英語で性格診断するサイトを見つけ、試しにやってみると以下のような診断結果だった。ずっと自分を内向的な性格と思っていたが、家族や友人などの仲間内では外向的という結果で、ちょっと意外だった。(当たっていないかも)

You are more of a public introvert and private extrovert

あなたはプライベートでは外向的で、外に向かっては内向的です。

Within your circle of family and friends, you are completely at ease and it’s often you who takes the lead to organise outings, dinners, vacations, etc.

家族や友人達の中でのあなたは完全に心やすくしており、外出や夕食や休暇などでは仕切り役になることもしばしばです。

However, as soon as you are in a public or professional setting you become rather inhibited.

しかし、公共的もしくは専門的な催し物になるとあなたは急に消極的になってしまいます。

You don’t feel in tune with what you would qualify as agitation, rivalry or vainglory and this can sometimes appear to others as a kind of hidden criticism or a lack of ambition.

あなたはライバル心や気負いのような激しさを感じて同調することができません。このことは時にはある種の批判を隠したり、または野心の欠如のように他者に見えることになります。

In fact, your pragmatic temperament helps you successfully manage problems as and when they arise.

事実あなたの実際的な気質は、問題が起きた時にうまく処理してあなたを助けます。

You aren’t the kind to calculate your every move and plan every inch of your life, and you find the sphere of family and friends to be much more gratifying to the professional sphere.

あなたはすべての移動の計画や生活の隅々まで計算するタイプじゃなく、家族や友人がより専門的な領域を満足させるための知識の範囲を発見します。

You are more expressive in emotional, sensorial and human terms and at home your organisation skills and capacity to oil the family wheels work well and many of your family and friends appreciate your qualities and skills.

あなたは感情的で感覚的に人間性豊かに表現して、家庭ではみんなをまとめるスキルと家庭を回していく能力がうまく働いて、多くの家族や友人はあなたの資質とスキルを評価しています。

At first glance, people find it hard to understand how you could be so comfortable organising your private life and then seem to lose the better part of your self-confidence when you’re in public.

一見しただけでは人々はあなたがどんなにプライベートを快適にできているかが分からず、外にいる時にあなたの自信のいいところが失われているように見えます。

Maybe it’s a question of rhythm? If you feel comfortable in your domestic rhythm it’s perhaps because it works more on a short-term basis (day, week or more rarely a month).

それは生活リズムの問題ではないしょうか?あなたがもし家庭内の生活リズムで快適に感じているなら、それはおそらく日か週か稀に一ヶ月単位がベースに働いているからでしょう。

On the contrary, the rhythm of professional life seems less concrete and more distant as the professional agenda works more to quarterly or annual plans, that you have no control over.

一方、職業生活のリズムは具体性に乏しく、専門的な事柄は四半期や周年計画のように働くので、あなたはコントロールできなくなるのです。

Is this the source of your lessened motivation? You can’t control all the cards so you have to adapt and, in fact, that doesn’t interest you at all? If this difference between work and home life doesn’t bother you, then carry on.

これはあなたのモチベーションを下げる要因になるでしょうか?すべてのカードを制御できないので、ともかくあなたは適応する必要があります。事実としてあなたは全く興味はないでしょうか?もし仕事と家庭での違いに惑わされないのでしたら続けてください。

However, if you feel frustrated by this imbalance, it could be useful to look into the deeper reasons (either on your own or with someone else) that keep you less focused on professional ambition. For instance, such reasons could be: a lack of thanks and recognition, a fear of not being up to the mark… It’s up to you to find out.

しかし、もしこの不均衡に欲求不満を感じられるのでしたら、自分自身か誰かにかかわらず、より深い原因、すなわち専門的な野心に集中しないようにする原因を探るのに役立つでしょう。例えば、感謝や認識の欠如、基準に達してないことの恐れなどが原因になっている可能性があります。(ともかく)調べるのはあなた次第です。

以上、自動翻訳も頼りにして訳してみた。診断が自分に合っていたかはともかく、理詰めの英語を普通の日本語のニュアンスにするのはとても難しいと感じた。

I was shy and timid

I was shy and timid, so my love was always unexploded.

今から思うと、ぼくは恋愛感情はあったが恋愛体験はできなかった。恋愛小説のいくつかを読んで、その事実を認めざるを得ない。昔はぼくも恋はしていたと思っていた。好きでいてもたってもいられなくなり、電話をして会っていたのを恋と呼ぶのかと思っていた。しかし二人っきりになるチャンスがあっても、もて余すだけでちょっとした間ができて、次には進まなかった。がっかりする自分を取り繕って、友達のように振る舞った。相手の方は自分に魅力がないのかと思ったかもしれない。いわゆる友達以上恋人未満という状態はあったかもしれない。今の妻となんとか結婚はできたが恋愛によってではなかった。結婚してから恋愛しようと思っていた。妻も恋愛は苦手のようだった。でも彼女はぼくより感情が豊かで気性も激しいところがある。昨日どういうきっかけだったかは忘れてしまったが、新婚の時、映画を観に行って妻が結婚指輪を落としたことがあったのを思い出していた。その時、二人で探しても見つからなかったので一度映画館を出た。ぼくは仕方がないと諦めていたと思う。でも妻は決心してもう一度戻り、座席の近くで見事に見つけたのだった。ぼくは自分が諦めたことを帰りの車の中で何度も悔やんでいた。ぼくには本当の心というものが欠けている気がする。十分に生きているという実感をどこかで失ったような気がする。それはぼく自身のせいなのだろうか?

リタイア者だから源氏を読む

今では社会から用のない年金生活者の身になっているから、社会的な倫理観から自分を見ることはやめて、平安の王侯貴族のように意識では遊んでみようと源氏物語を今日で須磨の巻まで読んだ。源氏物語は読むまでと読んだ後の印象が、これまでのぼくの読書体験中で最も異なる。ある意味傍若無尽で軽く常識を跳び越える。神をも恐れぬ恋に没入する主人公には、繊細な神経と生真面目さを同居させる。しかし現実は厳しいリアルさで細々と展開する様は、現代の管理社会並みのストレスに支配されてもいる。確かに典雅な楽謡と燻香と月と風雅に満たされた王朝世界があるが、夜の行動が意外に多くを占める。ほとんど深夜に訪れる光源氏を待っている女たちがいる。明け方の風情をさりげなく描くことで多くのことはぼかされる。しかし末摘花のような醜女との場面は容赦無く具体的であったりする。五百人近くの登場人物を描き分ける筆致や、和歌から漢詩まで、都度シーンで登場人物に歌わせるだけの紫式部の教養は空前絶後と言ってもいいのではないか。近代の大河小説や全体小説などをありがたがっていた自分が恥ずかしくなるほどだ。とにかく読み始めた人にしか開かれない、現代人にとってこその快楽の扉がそこにあると、ほとんど他人に勧めることをしないぼくがお勧めする。

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読書運動を始める

佐藤優松岡正剛の共著、中公新書「読む力」によると、現代人は急速に読む力が衰えてきているという。おそらくそれにはインターネットの普及が関わっていると思える。とにかくググッて見ればたちどころに答えは見つかるという便利さを手に入れてしまったのだから、あれこれ仮定や推理をするまでもなくなる。「読む」の深い機能が失われて、表面だけの射程距離の短い範囲で「終わってしまう」。本当は、読むというのはそこから先の作業なのだ。平野啓一郎は「本の読み方_スロー・リーディングの実践」で、読書は読み終わってからが始まりだと述べている。読んでから作者の頭の中へ、最初の読書とは別の「読む」力を使って進むのが本当の本の読み方だという意味のことを主張している。ぼくはこれらのプロの達人にはなれないが、自分の持ち場で読む力を仲間と共に養っていこうと思う。これは実践的な「誓い」である。この誓いが退屈な日常からの脱出を意味することは、この前ブログに書いた通りである。そういえば、ルターは聖書を読む運動を始めて革命を起こした、という若い哲学研究者がいたのだが名前を忘れてしまった。それほど読む力には現実を変える力があるのである。