開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

歴史を感じるこころ

美大OB・OG6人のグループ展があって、案内のDMに是非見にきて欲しいと手書きのメモが書かれてあったので、重い腰を上げて見にいくことにした。6人の中の3人はぼくと同級生だった。3人のうち1人は工芸科のOGで、ぼくはすぐに顔を思い出したが、彼女は知らないと言った。1年の時にぼくは彼女を一度だけデートに誘ったことがあったのに、忘れられていた。今は滋賀県に住んでいるということだった。何にもないところよ、という彼女にいいところじゃないですか、歴史がいっぱいある、とぼくは返した。歴史がいっぱいあるというのは変な表現だが、紫式部石山寺源氏物語を書いていたり、織田信長の水軍が琵琶湖を水路に使っていたり、明智光秀が活躍していた場所がいくつもあったと思う。でも住んでいる人からすれば、何にもないと感じるのは否めないのかもしれない。何しろ歴史は直接的には見えないからだ。見えないにしても何となく、情緒で雰囲気は感じるのではないだろうか?想像力のチカラを借りることによって、住んでいる場所を見直すことができるのではないだろうか。

社会学者Mへ

何か得意なものがあって

人より優れたところがなければ

相手にされない社会って

決していいもんじゃない、と

君は思わないか?

何から何までランキングして競わせて

勝者だけに女神の微笑みが与えられる

みんな楽な方に行って無責任な観客になろうとする

何を勘違いするのか、批評までするアホがいる

お前は何者なのか

どこで息をしているのか

日本が先進国の仲間になろうと

命を捨てていった先人たちは

もう後進国に成り果てていると自嘲する

観客たちに何を思うだろうか?

お前は何者なのか

俺はただの男で、死霊の心がわかる

自嘲する暇があったら

全身全霊でもがいてみよ

自嘲するならお前を嘲笑う奴らを

叩きのめしてみよ

 

源氏物語に集中する

世界最古の小説が日本で生まれたという、歴史的事実をどう捉えるか。神話や経典や説話や哲学書ではなく、物語を推進する心理や風習や情緒や感情が語り手によって描かれる、文体を持って構築される小説形式が11世紀に出現した。それは英国の人文研究家によって驚きを持って近代に蘇らせられた。少なくとも大衆が読むようなきっかけを作ったのは、ウェイリーという英国人らしい。ぼくが源氏物語をどうしても読む必要があると思ったのは、この歴史的事実に興味を持ったからには違いないが、もっと卑近な理由は源氏物語を読まずに死ぬのはどうしても後悔するだろうと思えたからだ。それだけぼくには源氏物語の影響力が大きいと感じてきたのだと思う。それは読む前に感じていたことだから、実際の中身とは自分の読解力を経ての判断と食い違うかもしれないことだ。しかし、若紫のところまで読んでぼくも驚きを持ってその世界のリアルさを感じている。リアルさとは作り物ではない、という感じのことだ。まだ全体から見れば序章というところだが、そこまで読んだだけでも、空蝉や夕顔や藤壺光源氏の必死な関わりが驚きだった。藤壺との場合はバレると実際死を覚悟するほどのことなのだから。

読書には発見する喜びがある。源氏物語は発見に満ち満ちている。今度、野々市市の恒例の文化祭に源氏物語研究もされている、大学の文学部教授に講演をお願いすることになった。この機会を縁と感じて大切にしたいと思っている。しばらくは読書は源氏物語に集中したいと思う。仕事は中途半端にしてはいけないと、前回公演の時の唯川恵さんから作家修行のアドバイスという形で、一つを終わらせてから次をすることというコメントがあった。ぼくはすぐ横道にずれてしまう悪い癖があるから。

意味もなく何となく進む青春

つまり、たったそれ、砕け散っただけ、、、

つまり、たったそれ、風に舞っただけ、、、

ぼくには、それは見果てぬ闘争と恋に明け暮れた、青春の観念に思えた。

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人生はゲームのように勝ち負けか?

人生に敗北はない、くたばらなければいいと書いてきた。しかし、敗北に気づくことは正しさを引き受ける人間だけができることだ。スポーツにおいては勝敗は明確である。勝敗にはそれぞれ原因があって、勝ちたければ負けの原因を把握して、原因を一つ一つ潰していけばいい。それは実際的にカラダを使って行わなければならない。原因が分かっただけではだめだ。単にスキルだけの問題ではないのはカラダを使うからだ。健康とはいえぼくのカラダは68歳のもので、カラダの硬さはどうしようもない。ストレッチや筋肉トレーニングも必要になる。カラダづくりまでほとんどしてこなかった。せいぜい腹筋と腕立て伏せを無理をせず、思い出した時にやっていただけだ。、、、肝心なことを今気づいた。ぼくの敗北はスポーツの試合(ゲーム)のことを思い浮かべていたが、自分一人のことを問題にしてもそもそもだめだった。つまり、相手がいることを忘れていた。スポーツは競争なのだった。自分より相手の方が能力が上回っていれば負ける訳だ。他者がいて、他者と比較してゲームが決まるということがそもそも嫌になっている。競争から降りたから定年後の今のぼくの人生がある、と思っていたが競争は実際は死ぬまでつきまとうのかもしれない。スポーツのゲームはすぐに終わって、人生ほど続かないからいいのかもしれない。人生も一生のゲームだと思って取り組むとしたら、幾つもの小さなゲームに分解してそれぞれのゲームの勝敗を見ればいいのかもしれない。だけど相当しんどいことだ。でも自分の人生を退屈しないで過ごすには、人生のゲームを闘うべきなのかもしれない。

久しぶりに迷う

昨日、公民館で源氏物語を読む会の5回目を終えて帰宅してから今日まで、何だか分からないが精神的な不安定を感じ続けていた。これを書くことでそれはやはり不安定なのだと納得できた。源氏物語の世界にますますはまり込んで行くのが分かる。多分不安定要因の一つは源氏物語だ。王朝の閉鎖的な愛欲の世界なのに、優雅で大らかで危険な成り行きに触れたことが、ボディブローのように効いてくるのか、、、性愛の強さは確かに歴史を動かしてきたと思えると、今度は源頼朝に惹かれ出した。二人の情熱的な女性、八重姫と北条政子に愛された好男子像が歴史から浮かび上がってきた。貴族の光源氏に対して、武士の源頼朝の方が受け入れやすいのはぼくが昭和の男子だからだろうか。、、、だがそのようにのめり込むのを制止する声がどこかで聞こえる。どこかで自分のこれまでのアイデンティティが崩れそうな予感がする。どんどん自分が保守化していくのではないかという懸念なのかもしれない。保守化とは頽落することなのか?自由を失う過程なのだろうか。一番大事なのは今を生きてくたばらないことだ。

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日本の歴史が分かり始める体験

定年後の暮らしをサラリーマンだった頃に描いてた時、読書三昧のイメージが一番先に来ていた。本に囲まれて毎日明け暮れるのがいいと思っていた。今思うとそれは、まさに昭和のイメージだ。インターネットというものがなかった時代と読書三昧の生活は親和性がある。そういえば、いつ頃からか源氏物語を読みたいと思い始めたのは、もう読書三昧が無理だと思い始めたのと同じことなのかもしれない。手当たり次第に読みたい本を読んでいっても、源氏物語のような古典には手を出さなくなるという予感がしたと思う。谷崎潤一郎現代語訳の源氏物語中央公論社文庫で5巻揃えていた。ずうっと30年以上本棚に入ったままだった。今読み出さなかったらもう死ぬまで読まないかもしれないと思いつめてやっと、3ヶ月前から読みだした。自分一人では途中で挫折しそうだから、読書会の仲間を誘って始めることにした。読書会には源氏物語を読み通したというお婆ちゃんが幸い二人いた。

やはり源氏物語は手強かった。特に谷崎訳のは格調を意識しているためセンテンスが長く、主語も原文のまま補われることなく訳されることが多く、しばしば他の作家の源氏訳を参照しなければならなかった。一番入りやすかったのは「窯変 源氏物語」を書いた橋本治の源氏だった。夕顔までは「窯変」のお世話になった。なぜ「窯変」という言葉が付いているかといえば、紫式部の世界が橋本治の世界に作り変えられているからだ。光源氏が一人称で書かれていて、追体験がしやすいように状況が具体的に想像できるように工夫されていて、登場人物の描写が脇役まで手を抜くことなく訳し込まれている。谷崎訳ではぼんやりとしか分からないことが橋本訳だと手に取るように分かるのだ。古典文学はとにかく分かることがスタートだと思う。まるで英文読解のような読書体験をしているようだった。

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読書会への参加者募集

これまで読んできた本の様々な知識や出来事や人生観や思想などから影響を受けて、あなたの考えが作られていると思う。誰それはこう言った、ということをいくつも挙げることができる物知りな人がいると思う。読んだ本の解説を述べて、自分の読んだ経験からお勧めの本を動画に上げているYoutuberも最近は出てきている。小説もエンターテイメントの一つとして面白く読めればいい、と考えてる人はいっぱいいると思う。ぼくは小説を娯楽の一つと割り切れない部類の人間だ。どうしても小説を書かないとおれないという種類の人間にぼくは興味を惹かれる。村上春樹の小説がなぜ、中国や韓国やロシアやイスラエルチェコやドイツやアメリカで翻訳されて読まれるのだろう、と考えたことはあるだろうか?世界は共通の何かを持っている。失われた身近な人に対する鎮魂の気持ち、やり直せない過ちを悔いる気持ち、どこにも居場所がなく孤立に追いやられた過去からの回復の旅など、人生で出会うことに共通の世界的なアスペクト(相)がある。共時的な出来事さえある。何も最初から世界を意識したわけではないだろう。自分を深く掘っていったらそうなったということだろう。それってエンターテイメントだろうか?人が生まれて精一杯生きて死ぬ、ということの意味を古今東西の芸術家や思想家が問い続けた。小説家ばかりではない、詩人や画家や音楽家が生涯をかけて追求した成果を知ることができる。科学者は20世紀でどんどん世界を破壊してきた。21世紀は破壊から何かを生み出さなくてはならないと思う。最初は読書会の参加者を募るために書き出したら、大きく話が進んでしまった。

文学で繋がりが生まれる

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文学に馴染みになると同じように小説を読む他人に親しみを覚え、自然と友人になれるのは文学の力だと思う。どうして繋がりが生まれるのかを考えてみると、その人が一人で立つようになったのは文学のおかげだと何となく自覚しているからではないだろうか?

大坂なおみ鬱病騒動のあとで

同じスポーツ記者のこの記事がテニス界の最も近い真実を語っていると思う。テニスの負けインタビューは、ボクシングでボコボコにされた選手にインタビューするようなもの。

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ぼくは議論がしたかった

今日は午前中読書会の理事会で、午後からテニス教室だった。今日のことを夜、湯船につかって思い出していた。理事会はぼくが会長なので話の進行を担当した。約2時間近く話は活発に進んだ。どうしたら新しい会員を迎えることができるか、このままでは「高齢化」でメンバーは確実に減少する。既に2名が体調の具合から退会を申し出ているのを何とか引き止めている状態だ。ぼくは議論をリードした。読むだけじゃなくて書くことが必要だと。書けば書いたものをどこでも誰にでもいつでも見せることができる。場所が限定されないのが、新しい人の目に触れる可能性を増すことになる。少しぼくの発言は熱を帯びだしていたかも知れない。そしてぼくは「議論」したかったことに気づいた。ぼくは読書会に参加したのは、ただ本を読みたかったのではなく、誰かと「議論」したかったのだ。

一方午後のテニスでは、最後のコーチの講評というか、練習メニューの課題について見本のプレーとコツの解説があった。ローボレーについてだった。ノーバウンドで取れなければ、下がってワンバウンドで取ればいい、というコーチの指摘はぼくには発見だった。今日の教室が終了してから、側のメンバーに聞こえるように「後ろに下がる発想はなかった」と呟いた。それは自分には聞こえたがその人には聞こえなかったか、意味が分からなかったのかスルーされた。それが自分には傷つくことだった。ぼくは仲間と学びを共有したかったのだ。そんな小さなことが意外にも気分を落ち込ませた。それはここのところなかったことだった。午前中は仲間と一緒だったし、午後は孤独になった。