開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

2018-03-01から1ヶ月間の記事一覧

福永武彦「死の島」を読んで

被爆者個人にはどのような生が営まれるかを20世紀小説形式で描き切った「死の島」を2週間弱で読んだ。(図書館の貸出期限は2週間だった)小説中の現在は昭和29年であるが、それを昭和46年に福永武彦は最後の長編としてこれ以上のものは残せないと本人が述…

泉野図書館に通っていた頃 の日記から

今日は午後から泉野図書館へ行っていつもの本の続きを読んだ。辻邦生の「言葉の箱」は今日で読み終わった。5回ぐらいで読了になったが、なかなか勉強になった。小説でも自分が何を書きたいかの核が大事で、それを見出す必要がある。小説はF+f である。Fは…

新書2冊から

今日ほとんど唯一の外出となっている昼食の蕎麦屋のあと、すぐには自宅に戻りたくないので本屋に立ち寄ってふと目に止まった新書を買った。タイトルに「肩書きを捨てたら地獄だった」とあったからだ。数百億円の予算を動かす、元通産省官僚の独立までの赤裸…

加藤周一編「私の昭和史」を読む

戦前、戦中、戦後を生きた普通の人たちの自分史の投稿を加藤周一が編纂したもの。これ一冊だけを読んでいるわけではないが、三日かけて読み終える。15人の私の父に当たる年代の男女の投稿でそれなりの文章力を備えた人で、客観的に自分と世界のつながりの中…

2017年3月30日付の日記から

水曜日が家の掃除の日になっているのを昨日忘れたので、まず掃除機をかけることにした。明日のテニスの予約を取りに行って早めの昼食はおろし蕎麦を食べて、午後は今日から始まる現代美術展を見にいくことにする。有名作家の作品ではないが、地元の作家のわ…

2015年10月12日付の日記から

一泉同窓会というものに昨日参加した。午後6時開会であったが、午後遅めの昼食のあと暇だったので片町までバスに乗って行き、会場のANAクラウンプラザホテルまでぶらつくことにした。片町では先ごろオープンした片町きららを覗いてみることにした。 やはり若…

文学趣味の仲間たちへ

今読みかけの小説を挙げてみると、玉川図書館から借りた井上光晴「黒い森林」、野々市図書館から借りた福永武彦「死の島」、昔買ってあって書棚に眠っていた野上弥生子「迷路」、高校一年の時に読んで再読したいと思っていたゲーテ「若きウェルテルの悩み」…

転換し始めた意識 2

書くことによって自由感が広がるのをちょうどみぞおちの辺りで感じている。この感じはつい最近訪れた。ずうっと過去の方に回想を続けていて、意識に蘇った量がある水準を超えて質的な変化を起こしたのかもしれない。夢の中の自在感のような、浮遊するイメー…

転換し始めた意識1

これまで書く動機を支えていたのは自分が主体性を作ろうとしていた思春期を回想して、その内実を再現することであった。定年後の再出発に当たってサラリーマンの定年からではなく、再確立された自己からスタートを期すということだった。それが今惰性に陥り…

井上光晴著「地の群れ」を読んで

戦前にはプロレタリア文学というのがあり、その代表的作家である小林多喜二の「蟹工船」は2008年に再脚光を浴びて、その年の流行語大賞にノミネートされていたらしい。ぼくにとって小林多喜二は特高から受けた拷問の凄さのイメージが強く、小説はなかなか読…

何となく人生をやり過ごす

ブログに書いたことが自分に返ってくる。それは自分で自分を苦しめることにもなるので、自虐的であまり建設的なことではないと言えるかもしれない。そう捉える人がおそらく多いような気がする。とにかく今のこの日常を生きることが先決だとする価値観を持つ…

愛が足りないのか?

ブログに自分のことを投稿するようになってから、正直にありのままの自分をさらけ出すことができなくなってしまった。井上光晴は100パーセントありのままに書くことはできず、15パーセントくらいは自分を擁護するウソを混入させているはずだと述べている。(…

哲学の人格的効用

世の中には働かなくても不労所得のある人は生きていける。ぼくは昔そういう人が会員になっているスポーツクラブに一時期通っていたことがある。入会金が30万円した。ぼくの年収からしたら破格の料金なのだが、そのころテニスが面白くのめり込んでいてこの趣…

2000年8月14日付の日記から

今年の5月から自宅でインターネットを始めている。確かにこれによって私の日常生活に変化をもたらしている。まず本が読めなくなってしまった。振り返ってみると、この本によって私の意識世界に様々な「過去」が形作られてきたのだが、インターネットによって…

自分はどこから書くか

どこというのは時間と空間の両方から規定できる。いったい時間の流れのうちどこかという問いと、いったい空間の中のどこかという問いがある。いや間違ってしまった。前者は普通「いつ」というのだった。いつというべきを時間でもどこと言ってしまったのは、…

少しづつ昇りはじめる

定年退職すると老いに向かって下降するばかりと一般に思われているだろうが、ぼくは違うぞと力んでいても体は正直でやはり下がり続ける流れにあるのはいたし難かった。サラリーマンでピークを過ぎた頃からそうだろうから、かれこれ15年以上は下がり続けてい…

1982年5月18日付の日記から

どういうところからでも「小説」は始まると思う。入り口はきっとある。例えば夜友人から電話である過去が思い出され、未だに決着の付いていない問題に再び取り組み始めるというような。「小説」を実生活からどこかで隔離して育てる必要があり、「問題」を考…

本を書いている自分を創造する

ぼくは自分の書いた文章を読んで同じような調子が感じられるのを確認して、自分らしさがそこにあるのに満足を覚えていた。これは他人じゃなく自分の書いたものだと認めるのは個性なのだと思っていた。ところが、今日突然に同じような調子なのは成長していな…

世の中は、支配する人と、支配される人にわかれている

まず、以下の文章を読んでほしい。ネットで読書会を開催している人が書いたものだ。 アリストテレスいわく、『人間社会には、それを成立させて、社会を社会、人間を人間たらしめている自然のきまり、おきてがある』その「自然のおきてやきまり」を『自然の法…

哲学とは何か

ぼくは哲学者でも哲学研究者でもないが、哲学というものをこの二者の独占物と考えることには異議を称えるものである。なぜ自分が哲学に引き寄せられるかを自分の側ではなく、対象として哲学の側に求めてみようと思う。かと言って、哲学そのものを語る資格は…

K先生との別れ

自分がどういう風に生きてきたのか、何故そのようにしか生きられなかったのか、今原因をたどる想起に身を委ねていて、思い当たることを発見した。ああ、そうだったのかと今にして初めて合点がいくのは、過去のことではあっても前進なのではあるまいか? たし…

娯楽のための読書と生き直すための読書

前者は多くの人が楽しんでいる普通の読書であるのに対して、後者は読むことが生きることと直結していることを示している。ちょうど「朗読者」のハンナのように、自分で本が読める喜びは至高の体験となるはずなのである。ハンナは朗読を聞いて文字を覚えると…

事実は認めるしかない

青年期、マルクス主義学生活動家と接触していた一年とその後の就職までの二、三年間をどう評価するかが、今になって自分に迫ってくる。自分は活動家であったのかは明確に否定できる。そばにいて共感はしていたが自ら政治的主張をする能力がなかった。しかし…

アンニュイな良き時代

今の時代には抒情や情念が全く欠けていると思う。ぼくも引きこもっていた時期があるが、ほとんど誰もが引きこもりの経験があり、ないのは鈍感でどうかしていると髪の長い文学少女に馬鹿にされていたものだった。アンニュイという言葉が生きていた。今の時代…

マイスウィートロード

昨日、西部邁の出ているYoutubeを見ていてふとビジョンが浮かんだ。気だけは若いと思っている自分が、年相応にある治り方をするような気がしたのだ。年齢を重ねて人となりが、落ち着いた自信が身につくように完成していくイメージをこれまでどうしても持てな…