開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

文学

人生は死ぬまでの暇つぶし

ぼくのブログは自分のための気づきの記録なので、第三者が読んで分かるようには書いていない。書こうと思うと億劫になって書く気力が失せてしまう。誰かを救いたいとか、自分を認めてもらいたいとかという動機がない。敢えて言うとしたら、気づいたことを自…

読む幸福な時間

今ほとんど満たされて平穏な心の状態だ。何か書きたいことがあるわけじゃない。記録しておきたいとも何も思わない。本も読みたい気がしない。読めないわけでもない。ちょっと思うのは、こんな平穏な状態は普通書くのが難しい気がして、だったら挑戦の意味で…

エッセイか、小説か

先日図書館から借りた、滝口悠生の「長い一日」を読み終え、今、柳美里の「南相馬メドレー」を半分まで読んでいる。「長い一日」はエッセイのような小説で、「南相馬メドレー」は純然たるエッセイである。前者は誰かのブログに載っていて、おそらく何が書か…

ある歌人の現代批判

「近・現代の日本、殊に日本人特有の丹念に緻密に、合理化時代と言うと事の隈々まで合理化してしまう、この徹底した単純さみたいなものが、我々の現代の社会の生き方を本当に息苦しく、たまらない状態に追い詰めていることは確かですね。しかも、それを幾ら…

会話文とは

水橋文美江脚本のノベライズをここのところ読み始めて気づいたことがある。水橋文美江さんはシナリオライターだ。シナリオというのは会話で進行する。会話があることで役者があるシチュエーションで行動できる。無言のまま行動することもあるだろう。しかし…

「スカーレット」を読む

水橋文美江 作「スカーレット」、水田静子 ノベライズを昨日読み終えた。この前のブログで下の3分の1ぐらいで読めなくなったと書いたが、途中で辞めてしまうのがためらわれた。個人の趣味で読む小説だったら、おそらく中座も気にせずに縁がなかったで済ませ…

文学の役割

もし自分の人生が親や世間体に支配されていることに気づかないことで、悲劇を生むとしたら文学はあなたを救うためにいつもそこにあることを知らせたい。

文学で繋がりが生まれる

文学に馴染みになると同じように小説を読む他人に親しみを覚え、自然と友人になれるのは文学の力だと思う。どうして繋がりが生まれるのかを考えてみると、その人が一人で立つようになったのは文学のおかげだと何となく自覚しているからではないだろうか?

文学的日常に生きがいを感じる

金曜日、泉野体育館のテニス教室で現代テニスでのサーブを教わる。土曜日、野々市中央公民館で李恢成の「哭」の読書会を開く。日曜の今日は、野々市スポーツランドでテニス仲間とダブルスを楽しむ。3日連続でそれぞれ違う仲間と外で会って交流した。こんな…

唯川恵と言葉を交わして来た

現役の直木賞作家の唯川恵のトーク・ショーに参加してきた。軽井沢から実家のある金沢にきて、金沢の隣の野々市でやる事になって、戸惑っている感じを受けた。田舎に帰ったらいつもの調子と違うものを感じたのではないだろうか?作家という感じは受けず、普…

ぼくはどんな人を愛しいと思うか?

このブログで何度も書いているが、唯川恵という金沢出身の直木賞作家について改めて触れたい。来月の19日に金沢市の隣の野々市市に来られてトークショーが催され、ぼくは主催者から事前に何か質問をするように「段取り」されている。多分会場で誰も質問しな…

加賀乙彦の小説はフォニイか?

ブログを書いている自分に会いたくなった。何となく気分が沈んでいるのは、江藤淳のフォニイ論というのを読んだからだ。割と好意的に読んでいた加賀乙彦の小説をフォニイとケチをつけられた。フォニイとは「空っぽでみせかけだけの、インチキの、もっともら…

純文学と大衆文学の違い

今日今年最初の読書会が行われた。課題本は唯川恵の「淳子のてっぺん」だ。唯川恵は軽くて読まないという古参メンバー二人がいたが、この本は読んで高評価をしていた。ただその評価も主人公の田部井淳子モデルの淳子の人間性や夫との夫婦愛の素晴らしさに対…

文学に対する無知

文学の役割は何か、という問いが浮かんで「文学の役割」で検索してみると、役割を社会的役割や教養というタームでとらえている記事ばかりが目立った。文学通の人たちの界隈で、かつて純文学論争というのが大塚英志と笙野頼子の間で戦わされて、文芸評論家の…

文学と人生

定年後無職で妻と二人でその日その日を気ままに暮らしていて、一番にやることといえば自分の人生を振り返ることになっている。その時思うのは、多分書くことが今の生活の主軸になっていることもあって、文学がぼくの人生を支えてきたという感慨である。人生…

死ぬまでに出会いたい芸術のこころ

毎月公民館の読書会に参加していて、今日午後からそれに出る。読む本が全て文学だとはいえない。日本の短編小説が主となるが、人生の一コマが切実に展開する濃い時間が自分を巻き込んでいく時、何かに出会っている感覚になる。揺さぶられるのだ。しかし単に…

ひとりでにぼくの中から出たがっているもの

まず以下の文章を読んでほしい。2年前にも引用したヘルマン・ヘッセ「デミアン」からのものだ。 「ただひとつ、できないことがあった。他の連中がするように、心の中にもうろうと隠れている目標を外に引っ張り出して、どこでもいいから目前にえがくというこ…

定年後の夢想

「、、、その面影を通して、彼自身の青春を再発見し、それからその人生の出発点にもう一度立って、架空の未来を眺めることで、彼が本来なるはずだった、現在とは別の彼自身のの姿を、おぼろげに描き出し、更にその実現することのなかった本来の彼の姿に、出…

ぼくの文学的出発点

文学との出会いと自我崩壊の危機の時期は重なっている。自我崩壊の危機の時期は生涯3回ある。高校1年次に最初世界文学全集と出会い、10冊ほど読み進んだあと現実感覚がおかしくなって登校拒否の事態を招いたのが1回目。サラリーマン生活中盤で、社長から…

ロマンロランはお好き?

サルトルは同胞の作家の中で、ロマンロランを優秀な作家とは認めなかったようだ。ぼくは高一で世界文学全集を読み始めたとき、現国の小浦場先生から「ジャンクリストフ」を勧められて読んでのめり込んでしまった経緯があり、ロマンロランが描く世界にはどこ…

若者に寄り添い続ける作家

今度の野々市市の公民館での読書会で、村上春樹の短編「アイロンのある風景」がとりあげられる。昨日2回目を通読した。隅々までも馴染みの「村上ワールド」だった。ぼくには馴染みでも、ぼくより人生の先輩方ばかりの読書会で「村上ワールド」は初の人がほ…

村上春樹の読者

文学に力があるとしたら、どんな権威にも頼らず自分の感性と良識に従って生きる力を、自身の読解力によって受け取る作法を教えてくれることだと思う。今日、読書会の仲間で80代のおじいちゃんが、村上春樹の「アイロンのある風景」を面白かったと電話してく…

「虚体」を巡って

確かに先の大戦での破壊され尽くした光景は、悲惨そのものである。しかし、ぼくには上の映像から破壊と同時に無限の自由をも感じられていた。それはいつ頃つかまえ得たイメージなのかよく分からないが、究極の破壊の後には創造しかないという健全な逞しい論…

文学の価値とは

村上春樹にとって「直子」という恋人の自死が、自分の生きる根幹を奪うほどの喪失をもたらしたことは容易に想像できる。闘いとはまず自分自身がまともに生きていけるようになるために、直子を生き返らせて対峙するために作家になることだった。その決意は作…

文学かぶれの少年

進学校に入ってから文学に出会って世界観が変わって、受験に興味がなくなってしまった。多分親は期待していたかもしれない。祖父は合格発表の日一緒についてきてくれて、合格を確認しての帰り道に繁華街によって鰻重をご馳走してくれた。孫の中でぼくは二番…

三島由紀夫は嫌いだ

「金閣寺」はようやく半分近くになった。主人公の溝口の大谷大学で出会う柏木という男が気持ち悪い。内飜足とされるが、溝口に向かって自身の童貞捨ての経験を披露するくだりがある。不具と美女のおぞましい関係に読者を導こうとする作者にぼくは馴染めない…

吉本隆明の村上春樹批評

「ふたりの村上」書中の「国境の南、太陽の西」批評を読む。流石にその読み取りに舌を巻いた。これまで何人もの文芸評論家の村上春樹論を読んできたが、作家である村上春樹を凌駕していなかった。吉本隆明だけが、作家が読者に甘えることで逆に創作を読者に…

純文学は終わったか?

純文学が終わったということが言われているらしいが、あまりそういう気がしない。誰からも見向きもされないとしても別にぼくは困らないし、純文学やっている人は勝手にやっているのだから何?という感じだと思う。仮に今よりどんどん読者がいなくなったり、…

原田マハについて

原田マハの芸術観(美術鑑識)については、昨日のブログで評価を改めると書いたが、小説家としての評価については判断できないでいた。その評価というのはあくまで個人的な基準であって、ぼくの中で読むに値するかどうかを決めるものに過ぎない。何しろ読む…

文学は生きる指針を示すものか

以下は、村上春樹を批判した文芸評論家、黒古一夫氏の記事の一部である。これはこれまで何となくぼくの心の隅に居続けている疑問でもあった。 高度に発達した資本主義社会(都会)に生きる人間の「喪失感」や「疎外感」、「孤独感」、「絶望感」を描くことに…