開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知るために、そしてそれを解くために。

1968年

1968年文化

ぼくが美大生だった頃、二つの雑誌を愛読いていた。季刊「遊」と季刊「FILM」だ。地方の高校生が受験勉強で閉じこもっていて大学に受かると、そこで初めて「世界」に遭遇することになる。時代は1973年になっていたが、1968年的な文化の残滓は雑誌に花咲いて…

(記録)伝説の討論会

あの伝説の討論会の映像がテレビで報道されていた。あの時代は革命や死が討論という場にいかにも当然という感じで語られていた。みんな今の閉塞感にある人間からするとずっと自由で表情が明るく見える。(過激派のイメージには見えない) www.youtube.com

想い出のシャコンヌ

生のクラシックコンサートに行けるような身分ではもちろんなかった。道端に置いてあった森永アイスクリームのベンチを勝手に拝借して、アイの所は「愛」に塗り替えて置いてあるような薄汚い美大生の下宿部屋で、バッハのシャコンヌが鳴り響いていたのは割と…

世界が動いている

これから書くことは全く個人的な世界の見方で、おそらく誤謬に満ち満ちていると思う。誰もこんなことは決して言わないだろうし、誰も信じないし無視されるに違いないことだ。それでもどうしても言いたくて吐き出してしまいたい欲求にかられる。それは、現代…

1969年の村上龍

以前に「69」を図書館から借りてきて読み始めた時に投稿していたが、読後の感想は投稿していなかった。これは政治的な学生運動が騒がれた時代にあって、高校生が反抗的に面白がることに情熱を燃やした悪漢小説で、村上龍の自伝小説でもあるということだった…

1968年を思い起こさせるもの

サイケデリックなイラスト 歩行者天国(これは1969年からかもしれない) ハイレッドセンター 直接行動という芸術 劇団 黒テント www.youtube.com

時代精神というもの

今からあの頃を振り返ると大学時代というのは無限定で、実際は小さな地方都市に住んでいたのに少しも地方が田舎だという意識がなかった。こんな比較はぼくだけにしか意味がないことだが、あの頃のK市は現在の東京よりも存在感があって、常に何かが起こりそう…

土曜の午後

土曜の午後には何かがある。 いつもと違う気分がふと訪れる。 静かなワクワク感があり、 子どもの頃デパートに連れて行ってもらった記憶の断片が 脳のどこかを刺激するのかもしれない。 街角に一瞬立ち止まり、爽やかな5月の風を感じる。 晴れた住宅街の坂…

1968年に生まれて生まれ変わるもの

今年2018年は1968年から50年経って、半世紀という節目の年だ。1968年という年はあらゆる秩序が疑われ、世界中で学生を中心に、価値観や世界観の伝統的枠組みへの解体が同時進行で行われたピークの年だった。(価値観として)全く新しい人間による社会構築へ…

事実は認めるしかない

青年期、マルクス主義学生活動家と接触していた一年とその後の就職までの二、三年間をどう評価するかが、今になって自分に迫ってくる。自分は活動家であったのかは明確に否定できる。そばにいて共感はしていたが自ら政治的主張をする能力がなかった。しかし…

アンニュイな良き時代

今の時代には抒情や情念が全く欠けていると思う。ぼくも引きこもっていた時期があるが、ほとんど誰もが引きこもりの経験があり、ないのは鈍感でどうかしていると髪の長い文学少女に馬鹿にされていたものだった。アンニュイという言葉が生きていた。今の時代…

1968年の観念

自己を超えて時空を超えてエネルギーを湛えるのが、観念だ。ぼくが大学生だった頃、地方ではあっけらかんと静かだったが、東京は創造的な雑然とした風景と幾分悲しみを含んだ緊張感があった。美大祭では遅ればせながら映画研究会がルイス・ブニュエルの「ア…

1968年

日記という空間には自分と対話したり、その場合は話す自分と聞く自分の二人がいるわけだが、自問だけずっとするような「独り言」の場であったりもする。今日は自問したい気分になっている。ブログを書き始めて1ヶ月経ったが、ブログという空間がぼくの書い…

サルトルとマルクス

ぼくのさしあたっての目標は、自分を取り戻すことだ。決して公共性や社会性に行き着いてしまう外面だけを自分だとするのではなく、錯乱や過剰な愛や優美さや放浪を愛する詩人の魂をも持とうとしていた自分を失いたくない。北見秀司のいう「生き延びるためで…

64歳のいま

現在。ここに居て妻と二人で暮らしている。近くに母が一人で住んでいる。外から何かを指示されて動くことからは解放されている。よく若い頃を思い出して時間を過ごすことが多くなっている。若い頃の気持ちにしばらく浸っていると、無意識の語り得ぬ非存在の…

1968年は中学生だった

自我が芽生える頃がほとんど中学の頃と重なるように思えるのは、多分中学に入って環境が変わり、小学校の時とは全く違うタイプの同級生との接触が自分に向き合うきっかけを作るからだではないだろうか。小学校の同級生は同じような仲間だったのに、中学では…