開界録2019

ぼくの生きている実人生に架けられている「謎」を知ることから、一人で闘う階級闘争へ。

書くということ

f:id:hotepoque:20180416074223j:plain

文章を書くことでぼくは何かを達成させたいと考えている。ぼくが自由に息をし、考えまたは想像し、記録し論評するような場所を書くことで確保したい。自由にというのは、今という現実の生活とか地位に関係なく遮断されてということだ。ぼくは「そこ」では何にでもなれるし、どこからでも始められる。例えば、スペイン旅行記から始めてもよいし、今気に懸かっていることをとりあえず整理して片付けるのでもいいし、ここ一ヶ月を振り返って新たに得た、本を読んでの着想でもいい。

これまでぼくはそれらを「日記」(毎日ではないので日記とはいえないが)という文章形式で気ままに書いてきた。それは書き留めることでぼくという存在が文章に対象化され、その対象化された自分に逢いにいくことをしていたのかもしれない。今書こうとしているのは、「気まま」ではなく、「達成」である。つまり将来に備えた準備やひとつの向上心を育てようとする意図がある。そうだ、ぼくは書く能力をつけ書くことを習慣にしたいのだ。例えば今読書が生活の中心になっているが、読書だけでは絶対に行き詰まるだろうし、書くことをしなければ世界が広がっていかないという確信がある。

今から書くことを習慣化してどの程度将来に備えられるか試してみたいというのが、これまでの日記での書く作業との違いである。 だがこれまでの日記でも、書いてきていることで実は既に達成されていることがある。

一つは自分の文体というものができている。文体とは一番書きやすく、書いたものを自分が読んでしっくりする文章形式のことだ。言わばテンプレートであり、いつでも書き続けられる書くことの再現性を保証するものだ。

二つ目は、書くことが自由をもたらす感じを既に味わったということだ。書くことが意識に変化を与え、大げさになってしまうが周りの景色を変えてしまう実感が得られる。色がやや鮮明になり、音もしっかり聞こえるようになる。実はさっき、先の段落までの文章を書いた後、車を運転してその景色の変化を体感してきたところだ。

三つ目は、当たり前のことだが自分がそれを読むことができるということである。自分が書いたものを読めることで自分ってこういう奴なんだというイメージを持つことができる。それをブログなんかに載せれば、自分だけでなく誰かが読んでくれて筆者について好悪の印象を伝えることになる。これは書き続けることで一層確かな印象を形作ることになる。

しかし一番大切なのは書く事が楽しいという感覚だろう。この感覚を自分は誰かに伝えたいと思う。同じ感覚を持つ人と出会えたり、自分もその感覚を味わいたくなって書いてみようとする人と出会いたいと思う。この思いつきが生まれたきっかけは、斉藤孝の「書く力」という本と出会ったからだ。

さて、書くという作業には主題という課題があり、それぞれ自分の「固有時」というのがあると思う。ぼくが書くとしたらそれについてだろうとずっと思っていた。ぼくの「固有時」は1968年だ。 

あの頃世界はどのように見えていたのだろうか? 少し上の世代が世界を動かしていたように見えた。エリートのドロップアウトが流行ったり、日帝とかアメ帝という政治的な言葉が会話に中に入ってきていた。解放、解体、革命、反戦等々、正確な定義もわからずファッションのようにそのような政治的な雰囲気のする言葉を高校生のませた男女が喫茶店で話しこんでいた姿は、その当時ありふれた光景であったのだろう。